<お客様へ> 新型コロナ及びその他の諸事情により、製本に必要な和紙の入荷が止まっている為、誠に勝手ながら、お客様からの注文受付を一時停止いたします。 令和2年10月4日 本田出版 社主 ---------------------------------------------------------------------------------- 【嘘か誠か】 陽もささないうっとうしい日々が続きます。今日も雨です。なかなかカメラの出番がありませんね。今年はビデオ撮影も多く予定しておりましたが、コロナの関係で神社の祭りやイベントも殆ど中止となっております。神々もご心配のことでしょう。過剰な自粛は考えものですね。我が家の窓の外を見遣れば、大きなアジサイの木に沢山の花がしっとりと色とりどりにきらきらしい。わたしも心違いをすることも多いが、田んぼの苗もスクスクと育つ頃だと思えば愚痴は恥ずかしい。 先日、タバコを買いにコンビニへ向かう途中だった時に、わたしの足元をシュルシュルと蛇が横切った。長さ1.5メートル程のアオダイショウである。スタイリッシュで悠々とした動きに風格さえ覚える。さすが茨城県ですね。数日前には義理の姉と長電話していた中で蛇の話題になったばかりである。その姉が子供のころ(熊本県で)ニシキヘビのような巨大な蛇を自宅近くの駐車場で見たという。わたしは其れを聞いて、やはりいたのかという感であった。と云うのも、実はわたしも40年以上も前のことですが、神奈川県高津区に鎮座する久地神社の近くの、其の脇を流れる多摩川分水路の草むらの中で、なんとも巨大な蛇が横たわっているのを見たことがあります。其の胴の太さはビール瓶ほどあったと記憶します。恐らく全長4メートル以上はあったようだ。ヤマカガシのような紋様は無く色からしてアオダイショウです。図鑑などをみても、そんな生物は国内にいないことになっております。でも現実に存在しました。こんな話は昔から日本全国いたるところにある。「〇〇池」「〇〇淵」のいわれ等と残っております。 神奈川県秦野市今泉にある大きな湧水池の言い伝えでは、むかし大蛇が棲み付いて、たびたび若い娘を襲って飲み込んだという。わたしの感想ではあながち嘘とは言い切れない。寧ろ本当だろうと思う。「百聞は一見に如かず」ですね。北アルプスを縦走登山したことのない学者が地形や地質を語ったとしたら、其れは嘘つき者と言われても仕方ありません。 最近、わたしが最も危惧しているのは、「移民法」はもとより、「アイヌ問題」である。このほど北海道に「ウポポイ博物館」なるものができたそうだ。わたしはアイヌに関しては、専門家でもないし、差別感も無い。しかし、アイヌが日本の「先住民」「文明発祥」などと、政府がらみで、巨額な国費を使って嘘と歴史改ざんと国体破壊を行なうなら黙ってはいられない。われわれ国学の先輩がたにも大いなる責任はあるが、利権で金儲けのためなら真実も英知もアイデンティティーも捨て去ろうというのか。こんな自民党(悪党)など多くの日本国民は望まない。此れでは天照大御神さまも大国主命さまもアイヌ人にされてしまう勢いだ。 自然神がシマフクロウや熊の毛皮や肉塊をまとった神人に降臨するなどのイオマンテのシャーマン儀礼など、我が国の原始信仰とは全く関係が無い。そもそも「カムイ」を「神居」の漢字に当てているが、古典文献にこんな用語は無い。恐らく、カザフスタンに近いカムイシロフ(Kamyshlov):ロシア中西部スベルドロフスク州の名から来ているものだろう。日本に渡って来たのは鎌倉時代あたりだが、居住形態は移動組立式のテントの様なものと考えられている。西部劇で観るアメリカインディアンの其れである。アイヌは錬金術を持たず、当然ながら金属刃物を造る術を知らないし、火起こしの術も無かったはずである。日本の火打石具は、焼き入れ鋼片とモース硬度7以上の石英・水晶・瑪瑙などが使われております。日本本州は火山帯が多いので幾らでも採る場所がある。北海道ではガラス質の十勝石が利用可能である。また、アイヌが火きり板を使っていたという説もあるが、恐らく和人が伝えたものだろう。 元々、アイヌについては根深い問題があった。アイヌの間で謂われていた「コロポックル(ふきの下の人)」という小人先住民の存在の話が古くからあった。アイヌ伝説によると、コロポックルは北海道各地の小さな横穴住居に住んでいて、共存していたが、争いが絶えなかったので、アイヌはコロポックルを本州に追放したというのである。我が国の遺跡調査では、縄文期では横穴に住めるのは死者のみであった。此れは記紀神話からも察することができます。明治年間に人類学者の坪井正五郎は、此の民族こそ縄文文化の先駆者と言い出して大問題になった。また、コロポックルの追放の話を踏まえて、沖縄人の平均身長に触れ、本土と比べて背が低いのはコロポックルの血を受け継いでいるからだという説も出てきたが、現代になって科学的にこれらの説は全否定されている。 アイヌ人が祭りの時に使ったと謂われる「削り掛けの杖」が上野の博物館にあるというが、わたしは写真でしか見たことが無い。其れを以って国学の先輩たちは神道に用いる「幣(ぬさ)」の原型であると言っているが、大嘘である。「削り掛け」とは、刃物細工の技法の一つで、ヌルデや柳などの柔らかい木を選び、其の皮部分の周囲を鋭い刃物で縦に細長く削ってゆく、切り落とさずに寸止めするのがコツである。削った皮がカールして花びらのようになる。是の技法を使って民間では、小正月の飾り物として多種多用な用途に使われ、餅花と併せて全国で行われておりました。民間の祭祀に於いては、まだ紙が貴重品だったころには、幣(ぬさ)とする棒に削り掛けを施して紙幣(かみぬさ)の代用にしました。是の削り掛けの作業は根気と集中力を要するものなので、今日殆ど廃れて了いました。唯一、山形県米沢市などに、民芸品として「オダカボッポ(鷹の置物)」の羽根の部分の表現に形を伝えております。 此のように、一つ、二つ取っても、アイヌの素人学者や学芸員の無知と嘘はバレバレです。わたしは専門分野ではないが、指摘できる材料は沢山あります。わたしも自分のやるべき仕事は山のように抱えておりますので、関わってはいられないとは思いつつも、アイヌの件では政府に対して、強く抗議したい。此の記事を読まれた読者の方々も、わたしに代わって発信してほしい。 北海道民よ、しっかりしろ。 令和2年7月19日(本田出版社主) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 【上様、神様、神さま】 読者の方から、「本田出版さんでは、『神様』を『神さま』と書くのは、単に親しみを込めてのことですか、一般的には『様』だと思いますが。他に意味があるのですか」と質問がありました。なかなか深い質問でした。確かにわたしは意識的に「神様」を「神さま」と書きます。 記紀歌謡、京城御神楽(宮廷神楽)、催馬楽(さいばら)や大衆歌謡の梁塵秘抄(後白河法皇)をはじめ、五大和歌集にも「神様」という用語は出てまいりません。また、更級日記のような文学作品にも見当たりませんね。「カミサマ」を深読みするなら、「神(かむ)さぶ、神(かむ)さび。:神々しいこと」の転も考えられますが、ちょっと無理があります。では、方向を指す言葉に「上様・上方(かみざま)」が有ります。此れなら神の坐す方向を示す折衷用語として「神ザマ」、「神サマ」は成立します。 こんなややこしいことを考えなくても、普通の日本人の感覚として、人に「○○様」と敬称するように、敬う対象ならすべてに「様」を付けておよびするのは当然という考えもあります。「お殿様」「お旦那様」や「お月様」、「マンガ様(農耕具)」など、接頭語の「お」まで付いていますね。「お犬様」の例は除外として、此れは日本語として正しい。「様」の原義は「様子、状態、形式、品格」を意味します。用例として古くは、竹取物語に「月のおもしろく出でたるを見て、常よりも物思ひたる様なり」と見えます。但し、「様」が適用される条件は「形あるもの」です。耳に聞こえど姿なく霊妙示現の神は「様」の適用外となります(註:外来神は別の問題です)。幽霊は言うまでもなく適用範囲になりますね。ですから、昔の人は「神様」とは書かなかった訳ですね。「おい、本田出版、変なこと書くな!!」などと云わずにもう少しお付き合いください。 では、私達はいつ頃から「神様」と書くようになったのでしょうか。わたしの考えでは、明治初年の廃仏毀釈の神道国教化政策も関係したかもしれませんが、その後の日清戦争(1894~95)、日露戦争(1905~06)の戦勝による国民の昂揚と、軍部と内務省の思惑が教育と富国強兵を推し進める中で、皇軍が神軍という意識にかわっていったのだろう。実際に、戦時中は全国の各主要神社では戦勝祈願の特別な祝詞が奏上され、命中するようにと砲弾まで奉納されております。ともあれ、先人たちは神々と一体になって、よく此の日本列島を侵略から護り抜きました。西欧諸国の植民地にならずに済んだのは奇跡でした。此の頃から、各家庭手製だった神棚が市販されるようになり全国に広まってゆきます。前出に「上様・上方」と示しましたが、是れは「殿上人」という意味もあるのです。即ち、「神」と「上」とが習合したと考えられます。所謂、「生神(いきがみ)」「現人神(あらひとがみ)」の思想が新たに形成されたのです。だから、「神様」と書くのです。ただ、大東亜戦争にアジア開放の大義はあっても、その後の精神論ばかりの戦い方・切り上げ方(終結)には大変問題がありました。世の中はマスコミや権力者に翻弄され、天皇陛下の大御心とは関係なく進んで了うものです。 しかし乍ら、今日わたし達は「神様」と敬い崇め、言い習わして100年の歴史もあり、定着してますので、全く問題ありません。神々を祀り祭る我が家では氏神さまを「命(ミコト)さま」と親しみ敬っておりますし、「サ・マ」に対する個人的な定義づけとして、「サ」の原義である「囁く」、「マ」の原義として「中身・真ん中・真実」を意識して、仮名敬称の「神・さ・ま」を使用しております。実際、御年輩の神主さんの中には「さま」を使っておられる場合が多い。 これでご質問の答えになったかどうかは分かりませんが、そのうちもっと良い答が出ることでしょう。 令和2年5月25日(本田出版社主) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 【此のままでは日本が滅ぶ】 世の中みな武漢ウイルスで自粛になって暗い雰囲気ですね。わたしも予定していた撮影が全て中止になりました。うちの撮影機材もみな泣いています。とはいえ、わたしは如何なる時も決して萎縮はしませんが、周囲に配慮しつつも、今できる事を最大限に努力したい。まあ苦労性ですが東国人のガッツはありますね。わたしは有難いことに健康に恵まれ此の10年以上というもの風邪ひとつひいたことがありません。両親と氏神さまへ感謝の祈りを捧げる日々であります。 然て、新しい本の執筆も始まりましたが、今度のは農業をテーマにしたものです。「編集雑記」では度々この農業に関する記事が出てきますが、国学を扱う以上、絶対に避けて通れないテーマです。国学の「核」となるものが農業であり、其れを体に例えれば、通う血液に当たるものが「神」であり「信仰」であるとわたしは考えます。此の程のウイルス問題で、資料収集に図書館等に通えませんが、個人集積資料で今のところは何んとか凌いでいます。しかし乍ら、今の景気低迷では年内での発刊は難しいかもしれない。 17日だったか、首相官邸より「緊急事態宣言」が出され、対象地域が全国に拡大され移動の自粛要請が発せられました。景気の悪化の最中、武漢ウイルスの脅威にさらされ活動の萎縮と共に益々先の見えない暗い世の中となってまいりました。わたしの日頃の行動範囲の中でも、ちらほらと閉店するところも見えています。そもそも武漢肺炎は、ウイルスの蔓延が賢著となっていた2月の時点でも、政府は全く対応を怠り、その上、2月には、春節で中国へ出国していた在留中国人など約5万人(net情報による)の再入国をやすやすと認めて了っていた。しかし乍ら政府からの反省と国民への謝罪が一切聞かれない。インバウンドなどとうつつを抜かしているいる内に国防(防疫)という観念を忘れ去っていた。消費税10%による景気の低迷とウイルス自粛で国民全体が窮している中、最初に打ち出された緊急給付金の30万円にしても複雑な条件付で、該当者が証明申請するだけでも大変だ。すべての国民が困っている時に、国会議員や役人どもの裁量で「あげる、あげない」の判断は履き違えにも高慢甚だしい。たかが国会議員や役人の分際で国民の血税から成る財産を私有化するなど許されない。官僚は上級国民だなどと国民を見下しているが、総理大臣と雖もただの下僕に過ぎないことをよくよく自覚すべきだ。このところ仁徳天皇の「民のかまど」の話がよく引き合いに出されるが、歴代天皇は、民の税は「公有」であると、必要な時には国民が納得出来るように公平に使われておいででした。だから陛下は「我が父、我が母」なのである。戦国時代でも名高い武将たちはみな農民と同じ鍬を持ったり、田植期には早乙女たちに雑じって苗を植えていた。此れが上に立つ者の姿である。守銭奴には高尚過ぎる話かもしれぬが。 17日の「緊急事態宣言」では、漸く国民一律10万円の給付の話が出た。やれば出来るじゃないか。総理大臣というのは行政の最高責任者であると共に急を要する時には強権を発動出来る。だったら消費税の大幅引き下げ又は廃止を何故やらないのか。こんな経済状態になる事ぐらい誰でも判っていた。わたしも素人ながら予測していたから「廃止しろ」と前々から記事にしていた。また是の税の性格上更なる増税も考えられる。恐らくウイルスが沈静化した頃には増税の話が持ち上がるだろう。また今回の給付金一律10万円だが、焼け石に水で全く用をなさない。最低でも一律30万円くらい考えて欲しかった。日本は独自通貨発行国である。勤勉な国民と国際信頼度の高い円があるのだから何の問題もないはずだ。今ここで、会社や其処で働く人々が倒れて了ったら、技術国日本は終わる。今の政府も野党も国民の事など全く考えていない。余談であるが、ミッドウェー海戦で我が国は惨敗し優秀なパイロットがみな海に消えて行った。その後、二度と太平洋の制空権を取り戻すことは出来なかった。飛べる飛行機は沢山残っていてもパイロットがいないのである。技術は補充が効かないのである。 一年以上前にブログ記事で「自民党は潰さなければならない」とわたしは書いた。「移民法」が決定打だったが、其の考えは今も変わらない。此処まで国が悪化しては他に政権を任せたほうがマシだ。きっと神々は道を示して下さるだろう。此のまま自民・公明に任せていたら国民は地獄の底に突き落とされる事に成り兼ねない。次の新しい政権で、安倍総理の7年で敷いた数々の利権がらみの悪法を見直し撤廃に全力尽くして欲しいところだ。其の新しい政権でも駄目なら国民みんなで引きずり落そう。基盤が軟弱なうちなら容易いことだ。自国意識、協調他愛と能力に賢明な人を選挙で選びたい。 令和2年4月20日(本田出版社主) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 【新刊のお知らせ、その他】 『和泉式部日記』令和2年4月7日発刊 和泉式部は平安時代中期の女流歌人。父は越前守大江雅致(まさむね)、母平保衡(やすひら)の娘、円融天皇貞元元(九七六)年頃に生まれる。同じく円融朝の天延元(九七三)年には『源氏物語』の作者である紫式部(九七三~一〇一四)が誕生している。此の二人の才女は容姿艶麗にして、秀でた感性と創造性を、和泉式部は和歌に、紫式部は物語文学にと、宮廷を舞台に展開していくが、往時、疫病が大流行していたときで、貴族・武士(豪族)・一般庶民を問わず沢山の人々が亡くなっていった時代でもあった。また、社会思想として、疫病も相まって阿弥陀念仏をはじめ末法思想までが国内に広がりをみせ、特に貴族社会に深く浸透し、其の人々の「現世を生きる」という根源的な正当性に「罪」という重く深い影を落としていた。そんな中で、「命も物も常住ではない」とする無常の仏教思想から文学理念としての「物のあわれ」という情趣や哀愁漂う我が国固有の美学が生まれ育っていったことも確かなのである。 本書『和泉式部日記』の書き出しは、長保五(一〇〇三)年四月から始まるが、以前、相思相愛の仲であった冷泉天皇第三皇子為尊親王との関係が、疫病と思われる皇子との死別によって、拠り所を失って沈んだ日々を送っていた和泉式部は、約一年後、同天皇の第四皇子である敦道親王からの一通の手紙をきっかけに、二人の交流が始まっていく。和泉式部は当時、四歳ほど年上だったが、敦道親王との新たな恋の道を紆余曲折を経て成就させ、敦道親王の冷泉院南院の邸に入る迄の過程を、贈答歌を核に喜怒哀楽と多彩な文学的表現豊かに、客観的な三人称描写を以て、恋愛小説風に仕上げている。此の『和泉式部日記』の成立は、敦道親王が没した寛弘四(一〇〇七)年以後まもなくと推定される。また、和歌の交流があった紫式部は日記の中で、和泉式部について「打ち解けて、文を走り書きなどしたとき、其の方の才能がある人のようで、ちょっとした言葉にも色艶が見える。和歌はたいそう面白い」と云っている。 〔凡例〕 本書は、宮内庁書陵部蔵『和泉式部日記(三条西家旧蔵本)』および諸本を底本とした。 一.全編を各段落に分け、その終わりに【語註】と【口語訳】を付した。 二.本文(原文)は、読解しやすいよう適宜の工夫で対応した。 1仮名づかいは往時の歴史的仮名づかいに統一した。 2漢字の旧字体は出来るだけそのままに使った。 3仮名に適切と思われる漢字を当てて読解しやすくした。 4漢字には全て振り仮名を付けた。 5反復記号は漢字の場合は「々」を用い、仮名の場合は「ゝ・ゞ」を用いた。 6本文には、濁点・句読点を加えた。 7会話の部分は、話し手が分かるように「宮・女」などを書き加え()でくくった。 8和歌には、詠み手が分かるように「宮・女」などを書き加え〔〕でくくった。 9用語や意味難解と思われる文言には、ルビに通し番号を付記し、【語註】で解説した。 三、参考付録に「年表」を付した。 四、参考文献 『古今和歌集』、各社『古語辞典』、『広辞苑』、個人集積古典用語集(本田)、その他。 監修 本田靖夫(本田出版社主) 《おわりに》 今、コロナウイルスの感染の脅威と、今後の蔓延の度合いは未知数であるが、疫病は神代の時から様々あったようで、特に平安中期当たりから大流行し、沢山の人が亡くなりました。『拾遺集(読み人知らず)』に「とりべ山谷に煙のもえ立たば果敢なく見えし我と知らなむ」という歌がありますが、鳥辺山(現、墓地管理所)は京都市東山区にありますが、昔は此の辺りは大規模な火葬散骨場所でした(心理的瑕疵の問題がありますので詳しくは書きません)。疫病封じに速やかに火葬がされたのです。 今日の新型コロナウイルスと言われるものが、どれほどの被害をもたらすか判りませんが、政府の嫌々後手後手の対応には呆れる程です。行政府も地方自治体も危機意識どころか軸足を完全に中国に捕られてしまっている。習近平は日本国を掌中に治めようとしている為、是の国賓来日を阻止することはほぼ不可能だろう。国内では「習近平国賓来日の阻止」や「国政を正す」など大々的に活動している組織がありますが、たいへん立派な事ですね。国体としてどうあるべことなのか、国民に覚醒の火を灯すことでしょう。「チャンネル桜」さんや「日本第一党」を陰ながら応援したい。 コロナウイルスで習近平が失脚しようとも中共の国是は日本収奪である。中国は仏教が滅んで以来、孔子・孟子の王道政治の戦略思想しか残っていない。宗教を基盤とした人民に於ける道徳道義の遍く価値観の共有概念と尊厳の理念が無くなってしまった今の中国は、経済的に変革が迫られようとも、国名が変わろうとも、政治の中身は共産主義という強権宗教でしか国を治めることが出来ない。だから、此の国は「約束ごと」を重んじないし、民主主義に移行することは無いのである。 今、安倍総理や其の取り巻きどもをはじめ、マスメディアは皇室を自然消滅に追い込んで、我が国を中国統治に委ねようとしている。以前にも記事にしたが、元号の「令和」は素人に任せた結果だから仕方ないとも思ったが、最近よくよく考えてみれば、「和ませしめる」とは将に、日本が中国に対して「凋萎(ちょうい):萎えしおれること」を、中国側の願望として、日本政府に対して何等かの働きかけがあったと疑いたくもなる。こんな事を考えるのはわたしだけだろうか。早いうちにもう一度、改元したほうが良さそうだ。今度は天皇陛下に一元しよう。 また、中国による北海道の土地の買い占めであるが、「チャンネル桜、北海道」のビデオを視た限りでは、道路の様子からして、200ボルト動力を引き込み、大型工作機械(マシニングセンタ、NC旋盤、プレス機など)を搬入するつもりだろう。恐らく工廠の建設が疑われる。厳重に警戒しなければならない。次は九州か。 令和2年2月29日(本田出版社主) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 〔政情、古今和歌集から〕 今日の安倍政権の悪政はとどまるところを知らない。野党も経済界もマスメディアもみな腐っている。利権と金儲けの為なら我が国日本を志那、上下朝鮮に切り売りしたい国賊ばかりだ。わたしは「中国は崩壊しない。20年後は大変なことになっている」とブログに書いてきたが、今も持論は同じである。 「種子法」「水道法」「ヘイトスピーチ規制法」「移民法(入管法)」「アイヌ新法」「IRカジノ法案」「男女共同参画」「教育無償化」「パワハラ法」「消費税10%」等々、国の衰退への材料が全て揃った。建国以来、我が国は英知を以って数多の国難を乗り越え国民の為の国家としての特色ある国造りを教育・物・質、共にインフラ含めて行ってきました。此処に至って、国民に希望を示せず、国の威厳や誇り、国民の所拠根本たる歴史文化も流転混迷に衰退への道を一下僕が天皇陛下の裁可も受けずに選択している。天皇は単に概念的「象徴」ではない。国民総意の絶対なる価値的「象徴」である。国会議員ごときに国体を変える権限など無い。国民が窮している時に財政出動も為ずに、また国防を軽んじて何が憲法改正であるか。今回の志那の習近平の来日の国賓扱いには強い怒りを感じる。当然ながら国際儀礼として答礼に我が国天皇陛下は志那へ向かわざるを得ないだろう。今回の事で安倍総理の性根がハッキリみえた。netなどで偉そうに「安倍総理には深い計算がある」などと寝ぼけたことを言う愚か者もいるが、明らかに工業技術と北海道を貢物にした朝貢の口火である。安倍総理が退陣すれば済むという問題ではない。此の事で将来の日本国がどのようになって了うかが解っていない。しかし、此れを阻止するのはほぼ不可能だろう。わたしは習近平の国賓来日は反対だ。 安倍総理を敏腕の営業部長と思ってはいけない。最近、わたしは横溝正史の『八つ墓村(実際のの事件をヒントに作られた映画)』を重ね合わせて了う。我が国には既に在日帰化人が相当数いる。官報を視れば、「まさかあの人も帰化人」と思わせるほど多く、政界、行政府、自衛隊、地方自治体、財界、教育界、マスメディア、芸能界、スポーツ界、宗教界、等々かなり影響力を持つ立場に帰化在日系が就いている事実がある。謂わば日本は半ば隣国系に乗っ取られた状態にあります。困ったことにみな日本名を名のっているから警戒と距離の置き方に混乱を生じさせているのです。安倍晋三という人の出自系譜関係までは調べておりませんが、何かDNA的に「恨(ハン)」の血を疑ってしまうのである。別にわたしは優性論を持ち出す訳でもないが、このままでは日本人は消滅の方向に向かうだろう。清流のヤマメは濁った湖水には住めないものだ。 また、政府が発表している「景気と雇用の安定推移」などは現実が解っていない。特定の地域の特定の業種だけだ。根幹である製造業では物を作っても売れないのだから、当然、価格競争で低コスト化に進み、日本人就業者を外国人と入れ換えようと政府、財界は目論んでいる。いつも犠牲になるのは働き盛りの日本の若者たちである。近年、未婚の男女がたいへん増えていますね。地方にいくほど鮮明です。好きな彼女を見つけてもお金が無いからデートに誘うのも躊躇されてしまうようだ。政治が変われば経済も変わるが、人の人生は時間軸に立っている。失われた時間とチャンスは戻ってきません。わたしは言いたい「即物拝金の思考から脱却せよ」と。好きな彼女ができたなら、素直に「俺、金は無いけど、君と一緒にいたい」と言う勇気を持ってほしいものだ。そんな気持ちすら伝わらない女では伴侶に適さないだろう。逆の立場で女性も同じですよ。いつの時代でも一人で生きてゆくのは大変ですが、二人で生きてゆくなら困難も突破できよう。 【古今和歌集・春歌】現代口語訳:本田出版社主 「山深み春とも知らぬ松の戸にたえだえ掛かる雪の玉水」 訳:こんなに山の深いところなので、春の訪れに醒めぬままの庵の松枝の戸に、 ポタリ、ポタリと落ちかける美しい雪の雫よ。〈式子内親王:後白河天皇の 第三皇女〉 「掻きくらし猶ふるさとの雪のうちに跡こそ見えね春は来にけり」 訳:空を暗くして相変わらず雪降り積む此の古里に、訪ね来る人の跡こそは見え ないが、確かに春の気配が感じられる。〈宮内卿〉 「明日からは若菜摘まんと注連し野に昨日も今日も雪は降りつゝ」 訳:明日から若菜を摘もうと、先に人に摘まれないないように其の場所に標(四 隅に奉を立てる)しておいたのだが、昨日も今日も雪が降り続いて、若菜摘 みには行けずじまいだよ。〈山辺赤人〉 「若菜摘む袖とぞ見ゆる春日野の飛火の野辺の雪のむら消え」 訳:楽し気に若菜摘みする乙女たちの白い袖が見えるようだね。此の春日野の 飛火(のろし場)の野辺の雪が、まだらに白く消え残っているのを眺めて は。〈前参議教長〉 「うぐひすの鳴けども未だ降る雪に杉の葉白き逢坂の山」 訳:もう鶯が鳴いているというのに、まだ降り続く雪で木立の杉の葉も白々とし ている逢坂の山よ。ああ、あの人はどうしているのだろうか。〈太上天皇: 後鳥羽院〉 「梅の花たが袖ふれし匂ひぞと春や昔の月に問はばや」 訳:香しい梅の花と共に在りし日がなつかしく思いだされる。誰が袖の焚きしめ た香の移ったものかと、昔のままの春の月に問いたいものだ。〈右衛門督通 具〉 「見ぬ人によそへて見つる梅の花散りなんのちの慰めぞなき」 訳:逢いたいと思っても逢ってくださらない貴女の代わりに見つめていた梅の花 です。此の梅の花が散ってしまったのち、自分を慰めるすべがないので す。〈権中納言貞頼〉 「春ごとに心を占むる花の枝にたがなほざりの袖が触れつる」 訳:春が来るごとに、逢いたさに私の心をいっぱいにしてしまう梅の花の枝なの に、いいかげんな心でお立ち寄りなったのでしょうか。贈ってくださった梅 の花に他の女の袖の匂いが感じられますのね。〈大弐三位:藤原宣孝の娘賢 子。母は紫式部〉権中納言貞頼への返歌。 《おまけ》 『愛の終着駅』作詞:池田充男 作曲:野崎真一 歌唱:八代亜紀 1番 「寒い夜汽車で 膝をたてながら 書いたあなたの この手紙 文字のみだれは 線路の軋み 愛の迷いじゃ ないですか 読めばその先 気になるの」 2番 「君のしあわせ 考えてみたい あなた何故なの 教えてよ 白い便箋 折り目のなかは 海の匂いが するだけで 今のわたしを 泣かせるの」 3番 「北の旅路の 淋しさにゆられ 終着駅まで 行くと云う あなたお願い 帰って来てよ 窓にわたしの まぼろしが 見えたら 辛さを 解って欲しい」 令和2年1月8日(本田出版社主) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 【神祭り、其の三】 今年も一か月を切りました。思えば黒雲に覆われた散々な一年だった気がいたします。新天皇陛下ご即位の慶びの日に嵐とは不吉である。神々の啓示に祝福の日の光も照り射しましたが、前途多難の国情を予感させます。来年から中国の日本攻略の魔の時代が本格化するとみたほうがよさそうだ。来春の国賓に習近平が来日するそうだが、当然ながら国際儀礼として天皇陛下も中国へ行かざるを得ないだろう。とんでもない事である。総理には目の前の罠が見えていないのか。一言「お断りです」と何故言う勇気が持てないのか。消費税も「25%」などと言い出している愚か者まで出始めた。来年は消費税10%の悪弊が如実に顕れ地方から閉店・日本人解雇・倒産の加速が始まるだろう。地方の現状を見て欲しい、外国人がゴミ袋を買うのを惜しんで、其のゴミを夜中に廃屋や山林に捨てまくっている。大体、市民にゴミ袋を買わせるなんて野蛮なことだ。神奈川県秦野市のように一切そんな事をしていないところもあるが、わたしは我慢がならない。 然て、此処からが『神祭り』の本題です。 わたしどもの記事を読まれて、来年から神さまをお祀り申し上げたいとお考えの方もおられるかもしれませんが、先ずは神棚の設置環境を整える事が大事ですね。市販の神棚は、一宮造り、三宮造り、五宮造り、七宮造り等があって、それぞれ御神札を納める扉の数が色々あります。九宮造りとなると特注になるでしょう。扉の数は全て奇数ですが、此れには訳があります。真中の扉には天照大御神さま(天照大日霊之命)をお祀りする決まり事があるからです。家庭祭祀は官社(官幣・国幣)と違い政治的背景が無く、基本的には民間社(府県社・郷社・村社・無格社)と同じですので、天津神と国津神の混成祭祀で構いませんが、神社の場合は同じ境内で社を別けております。ご家庭でもお祀りするスペースが十分に取れるのでしたら神棚を二つ揃えると良いでしょう。あまり言いたくないのですが、ホームセンターなどで販売されている神棚は全て中国製です。1年もすると変形したり接着部が剥がれたりします。出来たら少々高額になりますが、神具店で日本製を選ばれた方が賢明だと思います。わたしの家でも市販の大き目の神棚を使っておりましたが、現在のは10年前に自分で製作したもので、コツコツと2年以上を掛けて完成したものですが、実際の神社本殿の縮小版です。恐らく専門家に製作依頼したら乗用車が一台買えるくらいの額を請求されたでしょう。根気と自信のある方はご自分で製作するのも心が籠っていていいですね。仏教でも「仏塔を建てること大母指(親指)の如し」と言います。 次は祝詞ですが、 敬虔な神道家ならご存じでしょうが、往々にして市販の祝詞を其のまま奏上していることが多いようです。祝詞では主語や目的語を明確にしなければ全く意味がありません。御神名を讃え述べ、先祖を敬うことは血潮を湧き立たせるものです。毎晩、神々と先祖にお食事をご用意させていただき、ご神灯の下で唱える祝詞も厳かに清くと、まこと喜びにほかなりませんね。自分事で恐縮ですが、わたしは本田家の長男ではありませんので、自分の家に仏壇を構える権限がないのですけど、毎晩、お勤めの祝詞奏上の際には必ず「本田家先祖代々」の文言を氏神名・そのほか御祭神名と共にお唱え申し上げます。 下記の『神棚拜詞』は、内容的に僅かに異なるものもありますが、おおむね日本全国の一般家庭(神道家)で使用されている基本形の一文です。 『神棚拜詞』 「此れの神床に坐す 掛けまくも畏き 天照太御神 ★産土大神等の大前を拜み奉りて 恐み恐み白さく 大神等の広き厚き御惠みを 唇み奉り 高き尊き神教のまにまに 直き正しき真心以て 誠の道に違ふことなく 負ひ持つ業に励ましめ給ひ 家門高く身健やかに 世のため 人のために 尽くさしめ給へと 恐み恐みも白す」 ★産土大神の下線のところは、具体的に御神名を、「氏神(〇〇神)」「産土・崇敬神社(〇〇神)」とし、最後に「〇〇家先祖代々」の文言を入れて文を整えると良いでしょう。もし、挿入文が長くなるようでしたら、『神棚拜詞』に入る前の修祓の『天津祝詞禊祓詞』の後に、そういった文を祝詞集を参考に作成しておくのも方法です。ほかにも家庭祭祀では、『祈念祝詞』『稲荷祝詞』『竈神祭』『地鎮祭』『厄年祓』『病気平癒祝詞』『先祖霊屋祭詞』等々たくさんの祝詞・祓詞がありますが、一文言を加えて使うと良いでしょう。本来、祝詞はそのように柔軟に作られている訳ですから。また、注意したいのは加減削除できない祝詞もたくさんあります。 一つ例を挙げますと、『大祓詞(中臣祓)』がそうです。現在、多くの神社では神社庁が奨励する大正三年版(内務省通達)を使用しております。是は前のブログ記事にも書いたのですが、全く酷いものです。本来の旧版に書かれていた最も重要な箇所が全て削除されております。わたしは一神道家として容認出来ない事である。わたしの家では全て旧版を使用しておりますし、本田出版が発行している祝詞集は新旧両様併記で載せております。判断活用は消費者にお任せ致します。それでは最後に『三社託宣』で締めたいと思います。 〔天照皇大神宮(天照大御神)〕 〇謀計は眼前の利潤たりと雖も必ず神明の罰に当たる。 〇正直は一旦の依怙に非ずと雖も終には日月の憐みを蒙る。 〔八幡大菩薩(応神天皇)〕 〇鉄丸を食すと雖も心汚れたる人の物を受けず。 〇銅焔に座すと雖も心穢れたる人の処に至らず。 〔春日大明神(武甕槌命)〕 〇千日の注連を曳くと雖も邪見の家には到らず。 〇重服深厚たりと雖も慈悲の室(いへ)に赴くべし。 また来年も宜しくお願い申し上げます。 令和元年12月4日(本田出版社主) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 【神祭り、其の二】 以前に書いたブログ記事とダブルところがありますが、最初に、 仏教伝来以来、日本密教(真言・天台)では教相(教義)や事相(修法・実践)など、亦、六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)や止観(瞑想法)や三業浄化(身・口・意)等の実践徳目の求道が示されております。観行(直観的洞察法)や実際の修行方法は聖(阿闍梨)の秘伝(口伝)とされます。日本仏教は導入されて以来、多くの聖を輩出し、また多くの宗派に分かれながらも国家仏教としての利権を明治期の廃仏毀釈(神仏分離政策)まで持ち続けていました。其れ迄、別当が神社の運営や祭祀に大きな権限を振るってまいりました(神仏習合)。 〇肉体と精神(自我)の擬似的分離(宇宙的観念の器としての肉体)と苦と呪縛(輪廻)からの遠離(おんり)の常楽我浄の追求。 一方、神道では、縄文の時代、単独に成立していたムラ信仰が、他のムラとの交流と地域社会の繁栄と拡大の中、合意する共有価値観から尊崇の対象が明確化され、自然と人間の関わり合いに於ける再生輪廻の摂理を、祭祀行為を以て確認し、稲作文化と共に信仰が各地方へと伝播していきました。此の事は『古事記(上巻)』の「斎庭(ゆには)の稲穂」に見られる通りです。神道の根本教理である神典は、『古事記』、『日本書紀』と『倭姫世紀(記)』を含む「神道五部書」がよく知られておりますが、仏教のように法則・哲理に依る教相・事相といった体系だったものはありません。超自然科学としての神道は、特に祖先崇敬に重きを置かれ、其の霊妙な現象・事象を啓示と受け止める心の分野として、説明が困難な事が多いのです。 さらに、邪気・不浄を鎮め清める火祭りの神事を行う神社もまだ多く、形態は神仏習合の影響もあって一見、仏教の斎燈護摩によく似ているが、是れは太古の祭りの型(かたち)を残しているものである。亦、『中世神道論』では仏教用語を借りて解説しているが、どうしても違和感は否めない。 〇森羅万象交通の融和と永続的共生再生への他愛社会の確立(かくりゅ う)。 亦、神社に於いて、仏教の三宝(仏・法・僧)の僧に当たるのが神職ですが、神職が氏子衆や崇敬会員に対して「修行為さい」などとおっしゃられる事はありません。神道の教理の柱となっているものは「道徳・道義」そのもので、仏教の実践徳目と殆ど変わらないものです。特に三業浄化の「身(體でもって物理的に犯す罪:暴行・窃盗・破壊など)」「口(言葉で犯す罪:罵倒・嘘・騙す・陰口など)」「意(心で犯す罪:怨み・妬み・怒り等)」は人と人との関わり方に於いて、人格の上品・中品・下品を分けるものです。其の事から、一般家庭の「神祭り」に於いては特に祭り主(昔は家刀自の役割り:主婦)は日頃から三業浄化を心掛ける必要がありますし、神もまた真実(まこと)・清浄な許へ来臨されるのです。 更に重要な事があります。御利益信心は「惟神(かむながら)の道」とは無関係だということですね。何事も自分みずから精一杯努力し、それでも為し得ぬ事なら、素直に神にお任せ申し上げるいさぎよさに、きっと神は救いの御手を差し伸べてくださいますでしょう。金剛界・胎蔵界の仏界は想念世界ですが、神道の神界は荘厳な霊体界なのです。ですから、「さもしい心」や「ぐち」は神の御前を汚すことにもなります。 しかし、今日の大都市一極集中や、景気低迷による諸問題や、女性の社会進出による結婚と子育て問題など、かつての「潤いある社会」が壊されていっている。おまけに総理大臣はじめ各議員、上層公務員、マスコミなど、国賊まがいのことをやって平気で恥じない。聖職者も澄ました顔ではいられない時代になって了った。売国・国賊に対しては言うべき事は言う、それでこそ神の子たらん在り方だとおもいます。只、Netや路上での「バカ野郎、死んじまえ」等の罵声は品が無さすぎますね。本田出版は出版業でもありますので一般庶民を扇動するような発言や行動は致しませんが、出来る範囲内でブログに書き込みをしております。 少し話がそれましたが、日本の神道人口は仏教人口に比べてかなり少ないです。統計は分かりませんが、たぶん5パーセントにも及ばないと思います。御輿祭りや正月の参詣奉拜には大勢の人が集いますが、慣例・慣習と信仰は違いますし、御利益信心と信仰も無関係です。安易に神さまをお祭りして意をたがえては御前を汚すだけとなって、禍のもとともなります。 都道府県各神社庁のHPでは「神様をお祀りいたしましょう」と解説されておりますが、形式ばっていて、いまひとつ「心はこび」についてのご案内が少ないのが残念です。ご家庭ならではの心のこもったお祭りの仕方があるはずです。お部屋の神棚の設置の仕方ですが、よく見る光景に、鴨居の高さにされている人が殆どだと思いますが、是れは駄目です。お祭り申し上げた以上、神さまはもう家族の一員なのです。毎日、お茶やお酒やお食事(ご神饌)をお捧げ申し上げるのは当たり前の事ですね。ですから普通に手の届く高さに神棚を設置しなければなりません。昔は床の間が神床でしたし、毎日のお仕え役は家刀自(主婦)でした。一家の主婦が巫女さんだった訳けですね。今日では戸建てでも床の間の無いところが多いようです。其の場合は、高さ120センチ程のしっかりした台を用意して、其の上に神棚を設置されると良いでしょう。ご神饌は八足台に並べるのが普通ですが、八足台は神具店で買いますとビックリするほど高価ですので、日曜大工で作るのがお奨めです。わたしの家では神室に格子の櫓(巾3メートル)を設け、其の上に銅張りお屋根のご神殿を設置しております。ですから八足台も特別サイズで二台を自作し、朱塗りを施しています。 お食事(ご神饌)の内容ですが、一部の品目を除いて、日頃わたしたちが食しているものと同じで良いでしょう。人が食せないものは神さまも食せません。必ず調理したものをお捧げいたし、菓子類も必ず封を切って器等に移します。漁師さんが生の魚介類をお捧げするのは大漁のご報告の意味で、ご神饌とは別です。お百姓さんがお捧げする生野菜も同じですね。只、注意しなければならないのは動物の「血の滴るような食品」です。馬刺し、牛刺し等は不可です。わたしも是等を口にしたことは一度もありませんが、肉類は必ず加熱調理したものをお捧げいたしましょう。一応、本田出版の祝詞集の解説では、「四つ足動物肉は原則不可」と書いていますが、昔から猟師さんが仕留めた熊や鹿などの獲物は分配の前に神社(社頭で)に捧げられておりました。 わたしの家では、毎日、和食を中心に、時には洋食と、其の日の献立通りにご神前に並べさせていただいております。わたし自身が酒好きなもので、日本酒、焼酎、ワイン、ウイスキー、ビールなど其の日の気分次第でグラスにお注ぎし、ついでに煙草も添えることがあります。わたしが言いたいことは、神さまも「今、共に生きるご霊体」であるということです。只、一般ご家庭ではなかなか難しい事だと思いますので、月並祭(毎月一回、一日または十五日など)をもうけて立派にお仕え申し上げるのもよいでしょう。その他、ご神灯の火の取り扱いには注意が必要です。 少し長くなりましたが、次回も「神祭り、其の三」となります。 令和元年11月 02日(本田出版社主) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 【神祭り、其の一】 以前にもブログ記事にしていますが、また例のごとく非科学的とおもわれるかもしれませんが、「神祭り」のご案内を申し上げたく、今日の記事と致します。 わたしは口には出しませんが、神々の霊妙不可思議な神通力は身を以て知っております。おそらく他の神主さんたちもそうだと思います。よく人の霊とご神霊を同格化して語る方がおりますが、はっきりと次元も性格も異にするものです。確かに人を神格化して祀った神社も多数あります。中でもや菅原道真や平将門や徳川家康や東郷平八郎や二宮金次郎などをお祀りしたお社をご存じの事と思います。これら神格化された祭神は、偉業・足跡を模範とすべく、崇め尊ぶ人間神という性格の存在としてお祭り申し上げているわけですが、高天原原始の神と霊格に於いて区別されるものです。平将門にいたっては、東国に独立国家をつくる野望で討たれ、其の将門の怨念を鎮める為に、社を設け祀ったのが最初である。 それでは、高天原原始神と人間との境目は何処にあるのか。やはり『古事記』に見る、天孫邇邇芸命の降臨と結婚、火遠理命の結婚、鵜葺草葺不合命の結婚など、三代に渡る山・海などの国津神の姫との婚姻儀礼など、森羅万象天地交通の万能の性格から、より現実的で人間的な営みの中で、共有価値観をはっきりさせ、秩序ある国家樹立に向けて、人間天皇として繁栄と平和を国民に約束された皇統と、其れに呼応した天津・国津神たちの姿があるのである。此の日向三代の時代こそが神と人間の中間の境目あたりとなるのだろう。 然て、前置きは是くらいにして、ご家庭での「神祭り」の話に移りたいと思います。 人は、生きていく為には何等かの職を身につけて労働対価を受けなければやってゆけません。特に学問をやられる方はどうしても二足わらじになりますから大変です。理想と現実は違いすぎて厳しい。人生は山あり谷ありの連続です。例外無くわたしの場合もそうでした。わたしが四十なかごろ、或る日、押し入れに長らくしまってあった二幅の掛け軸を取り出してから人生が好転し始めました。是の掛け軸は、わたしが二十歳の時に父親から手渡された、天照大御神さま、聖徳太子尊影の二幅でした。氏神さまと共にお祭り申し上げているうちに、自分が進むべき道を感得したのです。 戦後、自由主義の蔓延で国際結婚する人も多くなりました。本来、日本の型として、人と人とは、単なる縁故で結ばれる訳ではなかったいと思います。お見合いも「赤い糸」の例えと、其処には「訳あり」の計り事が遠く祖先から代々引き継がれていると言えなくもありません。仏教的に云えば因縁ですし、科学的に云えばDNAとなるのでしょう。嫁に入られた方の家筋を辿れば、自分の家筋と合致する点も、歴史も見えてまいりますね。亦、仕事選びも、憧れや欲で突き進むと殆どが失敗に至ります。人にはそれぞれ持って生まれた天分(職掌・素質)というものがありますが、其れに沿った努力をしないと、いつまでたっても宇田津の上がらない結果に終わります。そこで信仰が登場してくるわけでです。神々があみだくじの線を下る様に、自分と太古の祖先とを繋いでくださるでしょう。そして、本当に自分に合った仕事と出会えるのです。世の中の所謂、専門家と言われ活躍する人たちの職業をみれば、氏神や祖先神や産土神が見えてまいります。しかし、自分の氏神さまは誰かなどとは殆どの人は知りません。自分の根底に流れている遠い祖先の信仰の血をあらためて思惟するのも意味あることだと思います。下記は大まかですが神々のご神徳と職掌です。ご神名は『古事記』表記です。 お百姓さん:月読神、櫛名田比売命、保食神、山神、水分神/教師:天照大御神、応神天皇、聖徳太子/医師:大国主神/文芸・芸能(歌・舞):天宇受売命/武道家:建御雷之男神、須佐之男命、天手力男神/漁師:宗像三女神、大綿津見神/航海:底筒・中筒・上筒之男神/鍛冶屋・鉄鋼業:金山毘古神・金山毘売神/大工:志那都比古神、聖徳太子/縫製業:万幡豊秋津師比売命/食品:宇迦之御魂神、大山津見神/酒造業:大山津見神/食器具:波邇夜須毘古・波邇夜須毘売神/消防:木花之佐久夜毘売/お産婆:伊邪那岐・伊邪那美命、産巣日神、木花之佐久夜毘売/接客業:猿田毘古神。 新興宗教、また其の祭神に関しては言及を避ける。 実際のご家庭での「神祭り」については次回のブログに書きますが。人の運、不運も、住まう家の在り方に影響されるものです。 よく聞くことですが、「家を建てるなら大きいのを」と望まれるようですが、必要以上に大きいのは避けるべきで凶です。維持管理を含めた負担の事もありますが、其れよりも、「気と徳」の問題が生じるからである。部屋数は最小限で、少し狭苦しく思えるくらいがベストです。3,4人家族なら、家族で食事ができる程度の台所のある2DKがお奨めです。物は必要最小限に小ぎれいなのが良い。部屋数の多い大きな家というものは「気」の空白が生じ、「徳」が逃げ、「魔」を呼び込みます。こういう家は必ず家族の結束が緩み、家庭崩壊に繋がってゆきます。部屋というものは、常に人の「気」で満たしていなければいけません。空き家が3、4年で朽ちていくのをみれば分かりますね。家は人の體(からだ)と同じです。昔の農家はみな部屋数が多かったが、住まう人もまた多く、長男家族・次男家族といった構成で一所帯に生活することも珍しくなかった。岐阜・富山の大きな合掌造りでは、一軒に20人程が暮らしていたという例もあります。 「おまけ情報」 昨今の東京一極集中は酷すぎますね。マンション、アパートなどの高い賃貸料を払い続けるよりも、ちょっと田舎の安い土地を買い求めて、小さな家を建てるのもいいし、中古物件から探すのもいいですね。唯、中古の場合は、事故物件・不浄な地かどうかを念入りに調べたほうがいいですね。精神的瑕疵の代償は大きいですよ。空き家1年以上はパス。お奨めは、「売主居住中」の物件です。ちなみに、茨城県なんか狙い目ですが。ご参考までに、東京駅発、茨城方面行きの高速バスは一日に70本。鹿島神宮駅まで片道1,800円。 つらつら、おまけ情報まで書いて了いましたが、次回は【神祭り、其の二】を書きます。 令和元年10月6日(本田出版社主) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 【日本よ是れでいいのか】 最近、net動画の「廃虚探索」にはまっています。荒れた廃屋の中に残された故人の遺影と埃だらけの神棚が痛ましい。 在りし日は、山之端の昇る日に合掌し、田畑蒼やかに閑静平凡とした風情の人々の営みも、緩急栄枯盛衰に、人、人、人の営営血潮に引き継がれし祖先の地も、明鏡止水の社の御手洗も、木立に響く鳴禽も、時の流れに置き去りにされ、追憶のうちに遠くへ忘れ去られてゆく。 わたしも若い頃は勉強を兼ねてカメラを持って各地の古民家を訪ね歩いたものです。特に印象的だったのは奥多摩や檜原村など東京都西多摩郡地域でしたね。集落は林業や狩猟・養蚕・細工物などが主な生業で、山に入れば栗・栃の実・アケビ・グミ・山菜等が豊富に採れ、谷川ではサワガニ・山椒魚・イワナ・ヤマメなど手掴みで捕れました。 其のころの山間部では未だに電気も通っておらず、ランプ照明と、飲用水は沢からホースで引水した家が多く見られた。また東京のチベットなどと揶揄もされていましたが、此の地方特有の檜皮葺き屋根はたいへん美しかった。今は全て皆無になって了っただろう。あれは確か六ツ石岳に向かう山道だったろうか、標高800メートル程の其の途次に樹林の開けたところがあった。斜面には、かつて畑であったろう痕跡が残っていて、一軒の無残に朽ち果てた民家があった。其の土くれの中から小さな赤いズック靴の片側が一つのぞかせていたのである。当時の山の暮らしの在り様を考えてみれば胸が熱くなる思いであった。もともと此の地域は、武田勢の落ち武者が(農兵の場合は親元へ逃げ帰るが)拓いたとされ、武士を先祖とする者が多く、また意味・由来の難解な地名も多く見られるのである。我が本田家は藤原系譜ですが清和源氏武田の血が少し入っている訳なのか、ついこだわって書いて了ったのだが。 賃金格差、核家族化が進み大都市一極集中が止まない今日、特に若者の労働人口の減少にともない農山村では過疎と化して、やがて限界集落などと云う言葉も全国的に広がりをみせているのは寂しい事である。日本は島国ではあるが六千数百もの島嶼からなる国である。利用国土面積に難はあるが決して小さな国ではない。人口も明治37年の日ロ開戦時には約四千万人であったが、今日の一億二千万人と大繁栄している。むしろ多すぎる程である。食料自給率や天然資源の利用と再生等からみて八千万人くらいが妥当ではなかろうか。問題なのは、未婚・少子化・労働人口の減少・富の分配と地方格差・景気回復である。いずれもアイデンティティ伴った国策を以て為せば、乗り越えられる問題である。以前に、中学校だったろうか、女子生徒たちへの訓示で教頭が「子供を多くもうけなさい」と云ったところ、不適切だとして、学校を追いやられるという不条理な処分を受けた。安っぽい米国流的な個人主義概念で是の教頭を叩いた学校側やマスメディアは余りにも幼稚で愚鈍である。一般庶民は「馬鹿々々しい」と一笑しただろう。 わたしが一番心配なのは、これから外国人が移民として地方に定着していくことによって、平安な習俗や治安が破られる事である。わたしは差別しているのではない。「区別」として問題を捉えているのである。わたしがドイツが好きなように、誰でもひいきにしている国や民族が有るものだ。唯、日本人と決して相容れない特殊性を持つ民族が隣国に在る以上、合法・非合法ともに侵入国に対する警戒と区別と、場合に於いて断固とした排除は当然である。其の国は言うまでもなく上下朝鮮と中国である。国会議員や役人の中に其れら民族の血を引いた者、また身内や親せきなどに血縁を結んでいるものが大変多いと聞く。是れでは法制や行政がねじ曲がってしまうのも当たり前である。行政の最高責任者である安倍総理の言葉の内を斟酌しても仕方がないが、明らかに我が国は亡国の道を進んでいる。此の国を一体どうしたいのか本音を聞きたいものだ。今の安倍総理に欠けていることは、国益に命を懸けた強権(総理特権内で)とカリスマ性である。政治背景がどうあろうともドイツの鉄血宰相ビスマルクの様なら国民は黙って安心してついていくだろう。一総理に酷で厳しいことを云うようだが政治は結果がすべてである。 また、自民党が公明党というカルト教団をバックにした政党と一緒である事は困ったものである。其の上、野党の中に危険思想を持つ共産党の存在などは憲法違反に当たらないのか。くどいようだが、諸外国では、たった一人の移民・難民を受け入れるに際しても、どれだけ注意を払い、厳しい試験と審査を行うことか。 終わりに『万葉集』の中から一つ書いてみました。 『万葉集:巻第五雑歌、八〇〇、八〇一』(現代口語訳:本田出版社主) 下記の文は太宰府(筑前國)長官従三位が大和國に向かう途次に、妻に宛てた手紙と、其の妻からの反歌である。 「父母乎 美礼婆多布斗斯 妻子美礼婆 米具斯宇都久志 余能奈迦波 加久叙許等和理 母智騰利乃 可可良波志母与 由久弊斯良禰婆 宇既具都遠 奴伎都流其等久 布美奴伎提 由久智布比等波 伊波紀欲利 奈利提志比等迦 奈何名能良佐禰 阿米弊由迦婆 奈何麻尓都智奈良婆 大王伊摩周 許能提羅周 日月能斯多波 阿麻久毛能 牟迦夫周伎波美 多尓具久能 佐和多流伎波美 企許斯遠周 久尓能麻保良叙 可尓迦久尓 保志伎麻尓麻尓 斯可尓波阿羅慈迦」 「父母を見れば尊い存在だと思う。妻や子を見れば愛しく可愛い。世の中は斯くあって普通であり、鳥もちにかかった鳥の様に離れ難く、寄り掛りたいものである。(私の)行く末もわからないのだから。穴のあいた沓(くつ)を脱ぎ棄てるように、蹴り脱いで、行くという人は、石(いわ)や木から生り出し来た人なのか。おまえの名を言いなさい。天へ行ったら勝手にすればいいが、大地には大君(天皇)がいらっしゃるのだ。此の天照らし坐す日月の下は、瑞雲のたなびく果てまで、ひきがえるの、跳ねまわる境までも、大君(天皇)の治められる瑞の國である。(そうであるなら)あれこれと、自分勝手に為すべきではあるまい」 妻の反歌:「比佐迦多能 阿麻遅波等保斯 奈保奈保爾 伊弊爾可弊利提 奈利乎斯麻佐爾」 「(ひさかたの)天への道のりは果てしなく遠く長い。おとなしく、家に帰って、家業に勤めなさいよ」 どうですか。万葉の時代の、深い家族の愛が伝わってまいりますね。 令和元年9月4日(本田出版社主) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 【消費税、言いたい放題】 こないだの参議院選挙は皆さん行かれましたでしょうか。誰もかれも口々には「入れるところが無い」の一言でした。わたしも行きましたが白紙投票でした。自民党が大敗すれば少しは反省に立って国民主体の政治理念を見つめてもらえるかと思ったのですが。選挙中の自民党宣伝で「教育無償化」「アベノミクス頑張ります」には怒りさえ覚えました。 そもそも消費税を10パーセントに上げるという話は、「教育無償化(税金化)」を推し進めるという案が先に出されていたからである。此れでまた新たな利権と天下り構造が出来てしまうのである。当然ながら移民無償教育と重なった法律である。こんな事をやると教育現場が混乱し、無国籍化と共に、教育も広く浅くと、どんどん形骸化されて、さらに学舎の荒廃が進むでしょう。将来的に移民学徒の言語対応に追われ、巨額な税金が投入されるのである。当然、派遣教師や施設(宗教施設も含む)や教材、学食などで一儲けしようという動きも出てくるだろう。国の未来を創るのは教育だと思っていますが、移民は此の根本を崩すものです。 消費税は物品税の廃止に伴い1988年に制定され、翌年に導入されたが、当初、税の目的として、ある程度の国民の理解と正当性はあったが、消費の鈍化の一歩となった。また企業努力によって堅調に躍進していた日本の製造業であったが、93年のオープン価格制度の導入によって、メーカーの標準小売価格が撤廃され、新たな価格競争の中で各メーカーの特色と研究開発への投資意欲が削がれ、大量生産・標準仕様・低価格化・人件費削減へと進んでいった。97年の消費税3パーセントから5パーセントに引き上げられた頃から景気減速が如実に始まっている。 今、考えてみると、消費税って本当に必要なものだったのだろうか。消費税5パーセントの時点で、政府は移民政策を具体的に視野に入れていたのではないのか。更にいうと、消費税が始まる2年前の1986年には労働者派遣法が制度化され、大小の企業で既に外国人労働者が多く働いていた。 物品税は理解できるが、消費税などというものは消費行為に対するペナルティーに他ならない。理不尽極まりないものである。其の税金が日本人の為に必要なところに正しく使われているのなら文句など付けないが、使われ方の内訳をみればビックリ仰天である。其の殆どが政府の借金の返済に充てられているのである。是の消費税はやがて20パーセントまで徐々に上げていくだろう。是の消費税で社会保障費に充てられる部分が移民外国人の為に食い潰されることは目に見えている。だから、早い段階で是の法律そのものを潰さなければならない。こう言うと、「財源はどうする」という話になって了うが、消費税が問題あるのなら物品税に戻せばよいだけの話だ。勿論、移民法撤廃・働き方改革の撤回が前提条件になるだろう。だいたいからして「働き方改革」などは以ての外である。是によって時間外労働の上限が360h/年にされて了った。此れでは会社が困るだけでなく働く若い従業員とて将来設計がたてられない。景気が悪いから失業率を下げる為にワークシェアリングだなどと責任転嫁しないでもらいたい。わざわざ景気を悪くしているのは国ではないか。また、つまらないセンチメンタルやなあなあ主義が規制・利権・天下り・拝金・売国などを蔓延させ、労働者派遣法などをつくっては我が国の固有の就労形態を壊し、スキルを身につけての自立の可能性を奪い、単純労働者を増やし、格差社会をつくり、果てには労働衛生が問題になってきたのではないのか。 此処で消費税をゼロにし、以前の物品税(1940年から導入)に戻せば、必ず国民の購買意欲は戻ってくるし、企業の社内留保を吐き出し、従業員への還元と開発投資に回すだろう。当然、税収も上がる。あのくだらない「男女共同参画」には年間8兆円もの無駄な税金が投入されている。今、国会議員が取り組まなければならない事は、くだらない法律をつくる事ではなく、時間を巻き戻すつもりで、憲法改正と既に整備された法律の見直しであり、撤回するものは撤回し、強化すべきところは強化して、利権構造を減らして、税金を正しく使っていく時代に入ったのではないだろうか。 また景気回復の弾みの一つになるのは国防である。今日の米国トランプ大統領の発言から斟酌すれば、憲法改正は今しかない。憲法9条だけでも全て改めて、国が財政出動し富国強兵にもっと予算を付けるべきだ。例えば大型空母一隻を純国産で発注すれば、建造に2,3年はかかるだろう。数千社の大小様々な企業が加わるし雇用も生まれる上、技術革新にもなり、やがて各企業の商品開発の礎ともなって国際競争力も増していきます。また艦載用戦闘機も、国産F3戦闘機が8割がた完成の域に達しているようなので、予算次第では極近い将来ものになるのではないか。米国製の優秀な戦闘機を幾ら買っても、其れに搭載された性能制限しているブラックボックスは取り外せないのである。 ごく最近、netで知ったのですが、厚生労働省が企業に対してパワハラ防止対策として、プライバシー保護と懲戒対象を柱に幾つかの大項目を法律で義務付ける方針を固めました。「仮称、パワハラ法」施行は2020年頃だそうだが、具体的に何がパワハラに当たるのかなどについてはnet検索で見て欲しい。厚生労働省の役人は暇なのでしょうか、あまりの馬鹿々々しさと此の法律の恐さが分かります。会社の上司が部下に対して、作業態度や職場人間関係や安全確認などで叱責する事はよくあるものです。叱責される側も理由を受け止め自己啓発として上司に感謝することもあります。此の法律ではパワハラの報告と監視部署を各企業の事業所ごとに置くことが義務付けられる。まさに企業版監視社会である。今まではお互い同じ日本人同士の関係なら許容できて平和だったのですが、此の法律は明らかに外国人労働者の保護を目的につくられたものである。「ヘイトスピーチ規制法」との合わせ技で、日本人を規制・排斥し外国人優遇の狙いだ。こういう法案をつくろうとする者たちはもともと差別意識を持っているのでしょうが、此れまでの社員教育と品質管理を誇ってきた日本流企業の在り方も、こういった差別主義者たちの手に依って崩壊していくのが悔しい。 令和元年7月31日(本田出版社主) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 【七夕(棚機)、その他】 うちのアジサイが今頃になって数輪だけ咲き始めました。しかし、桃の木は春にたくさん花をつけたのですが実がまったく生りません。今年は異常です。非科学的といわれましょうが天の啓示と受け止めるのも智慧です。今の国の政策もやること為す事、全て気が狂っているとしか思えない。野党などは論外である。本当に危ういものを感じます。元号が「令和」になった時、わたしは内心これはまずいと思いました。しかし、お祝いムードに水を差すようなことは記事には出来ず、また、天皇陛下を悲しませることにもなりますので、わたしなりにご神前で御世のご安寧をお祈り申し上げました。本来、元号は皇室が神々とご相談なさってお決めになるものなのですが。この「令和」の「令」は「〇〇〇せしめる」の意味であることは、古文を学んでいる者なら直ぐに気が付いたはずである。此の元号には新たな時代を「祝う」という内容が欠けているのです。素人が改元に関わってはいけない事の悪い例として、この先、災禍に遭わなければよいが。 米国トランプ大統領が「自分の国は自分で守れ」と日本につぶやいたそうだが、やっと時機到来といっていいだろう。此の機を逃しては米国の呪縛とくびきから脱する千載一遇のチャンスは無い。一機に新憲法の樹立の時である。また米国からF35戦闘機100機を買うようだが、そんな金があるのなら、せめて60機分にして、残り分は国産戦闘機F3の開発に使うべきではなかろうか。最近、わたしは変なことを考えた。国防には本格的な空母が必要だが、国の気概を示すような最新装備の軍艦長門も一隻欲しいところだ。それには、先ず消費税をゼロにすること。移民法・種子法・アイヌ新法・男女共同参画・ヘイトスピーチ規制法、等々全て撤回すべきである。自衛官の給料も今以上に上げてあげるべきだ。きっと未来は開ける。それでこそ国の首長としての天皇を再び頂いて、日章旗・天皇旗、共に日本の空にひるがえる日も夢ではないだろう。我が日本国の三千年の歴史の固有民主主義の実績から其の形が一番良いのだと思う。今のまま国が腐っていくのなら行く先は地獄である。それも神々の計算の内と取れないでもないが。 然て、此処からが本日の本題「七夕」です。 ご節句の一つ。陰暦七月七日、其の日の公家公民の行事をもいう。此の七夕は、奈良時代に伝来したものですが、中国では古く『詩経』や後漢時代(2世紀)の古詩、六朝の『擬天問』に見え、裁縫の上達を祈る女性の日として乞巧奠(きっこうでん:牽牛・織女の二星を祭って手芸の上達を願う)の習俗が伝ったもので、其れが我が国正史『古事記』の「棚機津女(たなばたつめ)」の伝説と結びついて宮中行事へと発展し、近世には学問・技芸向上を願う日として民間にも広く普及し、各地方性ゆたかに展開していきました。また盆の習俗との関係も深い。 『古事記(上)』の阿治志貴高日子根神と天若日子の段に「天(あめ)なるや 弟棚機の項(うな)がせる 玉の御統(みすまる)、御統に 穴玉はや み谷 二(ふた)渡らす 阿治志貴 高日子根そ」と見える。是の歌は上代歌謡の夷振(ひなぶり)という歌曲に当てられている。 また、『万葉集(巻第十)』に、 「我(あ)がためと 織女(たなばたつめ)の 其の宿に 織る白布(しろたへ)は 織りてけむかも(二〇二七)」 「天の川 梶の音聞こゆ 彦星と 織女(たなばたつめ)と 今夜(こよひ)逢ふらしも(二〇二九)」 「天の川 霧立ち上る 織女(たなばた)の 雲の衣の 返(かへ)る袖かも(二〇六三)」等々。 織女は天上界に居られるという機織る女神で、天の川は『記紀神話』に見るところの高天原にあるという「天の安川」である。そして、『記紀神話』と切り離して、独立した我が国固有の信仰として、「聖なる乙女が人里離れた水辺の機屋に籠もり、潔斎し、棚機(たなばた)すなわち、川岸に設けられた懸け造り(棚)の場を斎場として、神女(乙女)が一夜の神の来臨を斎(いは)い祭るのである。そして、神がお戻りになられる神送りの日には、祭の祝主(いはいぬし:神主)をはじめ、参集者ひとり一人の罪穢れを、神に託し、持ち去り、消し去って頂くことをお願いするのである」。此の古代の信仰行事が、後に「七夕送り」として多少の形式を変えながら全国へと広がってゆきます。 「七夕送り(七夕流し)」は棚機飾りの竹(紙でこさえた人型や短冊など)や棚機舟といわれる小さな舟など祓物を川に流す行事で「七夕流し」ともいう。室町将軍家足利氏では、七枚の梶(クワ科の落葉高木)の葉に歌を書いて、其れを笹竹にくくりつけ、後ろ向きになって屋根に投げ上げた。江戸初期では宮中でも同様の祓の方法が行われたが、徳川将軍家では、城内に笹竹を立てて七夕祭を行い、翌朝この竹を品川の海に行って流した。 また、七夕に竹を立てる風習は全国的なことではなく、九州・四国以外の各地方、特に関東から東北にかけて盛んに行われ、東国を中心として全国的に広まった風習である。東国では主に竹飾りのほかに、藁や真菰(まこも)で馬や牛を作る風習があり、宮城県桃生では七日を馬曳きといって、草を編んで数頭の馬を作り、草人形を添えて屋根の上に上げる。福島県石城では、小麦藁で迎え馬というものを作り、家の門口に置く。千葉県北部では、真菰で牛と馬を作り、門口に置いてから、草刈の野良作業に連れ持ってゆく。また、長崎県五島では、七月十六日を盆の供物を精霊馬にのせて流すのを七夕流しと呼んでいる。等々、七夕に関しては仏教的思想なども入り混じって伝えられてきているが、全国的に共通している点は、「神の来臨と送迎」「祓の神事」であり、説明には無いが、「女が髮を洗い清める日」「乙女が神に白妙(しろたえ)を捧げる日」なのである。 さらに、機織女(はたおりつめ)について述べるなら、日本正史『記紀』が成立する以前からあった伝説と信仰で、『日本書紀』に登場する高木神(高皇産霊尊(タカミムスヒノミコト)の姫神である栲幡千々姫命(タクハタチヂヒメノミコト)に比定されると考えます(此れはあくまでもわたしの考えですので、決して押し付けません)。 令和元年7月6日(本田出版社主) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 【夏越祓・その他】 今年も早いもので六月にもなりました。とくに高齢になると一年が本当に短く感じますね。今年は五月の御世代わりを記念して庭にミカンの苗木を植えました。ただ残念なことに紫陽花が霜にうたれた為、今年は花が咲かないようです。うちの近所の農家さんもエンドウ豆が全てやられてしまって、長年作物を育ててきたがこんな年はまず無かったと言っておられました。わたしも神道家ですので、自分の立場から、色々と一つ一つの事象を通しては、ご神前で思惟祈念することがあります。 然て、六月といえば年半年間の大祓の月です。六月三十日には全国で多くの神社にて「夏越祓(ナゴシノハラエ)」の神事が斎行されます。神社境内など鳥居内側に大きな茅の輪が立て設けられ、参詣者が古式作法を以って其の茅の輪をくぐる事によって、今までの半年間の罪・穢れを祓い落とし、次の半年間への「仕切り直し」をするものです。此処で云う「罪・穢れ」とは故意に犯した結果ではなく、最善を尽くして生活する中で、積もり重なった「心の垢(あか)」のことである。勿論のこと故意による悪行は言うまでもないことですが。「病は気から」と申しますが、病も災厄も心の在り方で避ける事も出来ます。よく「心癖」ということがありますが、知らず知らずして人を傷つける言動を為ている事もあるものです。昔の人は本当に知恵者ですね。是が意味ある智慧として古代から今日まで行われている神前行事の一つなのです。 此の大祓は「六月晦日大祓(ツゴモリノオホハラヘ)」といい、延喜式では「十二月モ此ニ准ヘ」と註があり、冒頭から「集侍親王・諸王・諸臣・百官人等、諸聞食止宣」とあります。天皇の名代を以って祭祀権を持つ中臣が申時(今の午後4時頃)に大内裏南中央正門(朱雀門)広場にて、親王以下男女官職員が集められ夏越祓が斎行されておりました。御祭神は内侍所にお座します天照大御神はじめ祓戸大神です。此の神事の名称の「晦日(ツゴモリ)」とは「月籠り」のことで、六月と十二月の最終日を恒例の大祓としていました。 今日では是の『六月晦日大祓詞』は神社本庁が推奨する改訂版(大正三年、内務省通達)であって、中臣の原文から下記の主語となる「罪事(罪名:計二十一罪)」が割愛されて奏上されております。また各神社さまでは毎日早朝のお勤めで神職が揃って『大祓詞(中臣祓)』をご神前で奏上されますが、やはり大正三年版の「罪事」を削除したものに従がっておられるところが殆どです。さらに、祭儀に入る前の『祓詞(ハラヘコトバ)』でも「高天原ニ神留リ坐ス神魯岐・神魯美命ヲ以テ」の重要な下りの部分を削除した神社庁推奨版を名高い神社をはじめ多くの神社で使っております。どうしてこんな事になって了ったのか知りませんが大変残念な次第です。勿論そうでないところもあります。こないだ茨城の笠間稲荷神社さまへ行って参りましたが、そこではキチッとした旧版の祓詞をお唱えしておいででした。こういったところにもやはり風格・格式・顕現というものが示されるものです。神社は創建年がただ古いからといって立派ということでは有りませんね。「主体はご祭神」であり、「斎主(イツキヌシ)」の姿勢が問われます。 其の罪事ですが、『六月晦日大祓詞(旧版)』に「安國止平氣久所知食武國中尓、成出武天之益人等我過犯牟雜々罪事波、天津罪止(・・・八つの罪名・・・)、許々太久乃罪乎天津罪止法別氣弖、國津罪止(・・・十三の罪名・・・)許々太久乃罪出武」と見えます。簡単に現代語訳しますと「平和な国へと平定し、統治してゆく中、ほうぼうから人々が集まってきて人口が増えたが、同時に不都合な事も色々と起こってきた。其の種々の罪事は、先ず天津罪と言えるものとして次の八種類(農耕妨害に関する罪)、こんなにも多く発生した罪であるが天津罪としてはっきりとさせて置き、国津罪(普通一般の罪)としては十三種類という多くの罪が発生した」。 是の国津罪十三種の中に「白人(シラヒト)」「胡久美(コクミ)」というのが見えますが、「白人」は『和妙抄』に「病原論云白癜(ハクデン・シロナマズ)。人面及身頸皮肉色、変白亦不痛痒者也」とあるので、顔や首筋など皮膚が白化したもので痛みや痒みは無いという。多くの研究者の考えとして、日本国内に持ち込まれた微生物による感染症と見ている。もう一つの「胡久美」であるが、同じく『和妙抄』に「瘜肉(ソクニク)。寄肉也」とあり、背中などにできた「大きなコブ」のことであろう。それにしても、当時の以前には見られなかった病や治安の乱れが人の増加と共に現われてきたのである。なりゆきにこういう話に進んでくると、どうしても今年施行された「移民法(入管法改正)」が気になります。前にも言いましたが20年後位には大変な事態が予想されます。文化は破壊され、国内は分断されていくでしょう。中国人によるエイズの伝播の拡大も考えられます。 今、脳天気に「中国は崩壊する」などと言っていてはいけませんね。何度も言いますが中国は崩壊しません。世界秩序・民主主義・道徳道義・条約など屁とも思わない統制国家である。人民が半分死のうが中国共産党は生き延びます。日本国民の99パーセントは善良な良識ある人々ですが、極僅かな者達が無知と悪意を以って国を引っ掻き回しています。こういう者どもを古代では「千早振る枉神(まがかみ)」と呼んでいます。いつの時代にも疫病のように国を混乱させます。必ず国内が不安定の時に起こります。外国の干渉や策謀に付け入らせない勇気と強い国造りが必要なのです。それでこそ皇室も末永く安寧に保っていけるのです。我が本田家は藤原系譜ですが氏名の「本田」は天皇から頂いたものです。全国に住み居られる本田さんとは1グループですが皆誇りある人たちだと思います。 いま国内の法整備・インフラ・軍事共に強靭化が必要なのです。男女共同参画や教育無償化などとくだらない事をやっている場合ではありませんね。人は自ら学びたいと思う時は、どんな境遇にあっても二宮金次郎のように道を切り開くものです。其れが血となり肉となり活きた学問として身に付くものです。こんな偉そうなことを言うわたしなどは未だに小僧っ子ですが。よくわたしは極右派と言われるのですが、右派でも中立派でも無く普通常識派の部類だと思っています。 少し余談になりますが、わたしもむかし会社勤めの経験があります、最初の2年間は営業に回されました。しかし、わたしは決して臆さず対外折衝で着実に成果を上げていきました。其れは社内がしっかりしていて良い製品を生産していたからです。だから誇りと自信を相手に堂々とぶつけることが出来たのです。100時間残業も楽しく思えたものです。国とて同じことです。外交の国益も国内の安定と自信によって勝ち取るものです。国内が疲弊している時にこそ内政をしっかりやらなければいけませんね。恐らく消費税10パーセントは決行するでしょう。安倍総理のやっている事は本末転倒です。 なんか話がおかしな方に行って了ったのでこの辺で止めます。 7月に発刊予定だった本は既に書き終えて、後は印刷製本に回すだけなのですが、今は見合わせている状態です。 令和元年6月7日(本田出版社主) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 【神仏習合 第二段、 其の三、本地垂迹説】 令和元年お慶び申し上げます。御世が常磐に堅磐に安寧であることをお祝いいたしたくおもいます。 今年も香取神宮、鹿島神宮の御田植祭に行ってまいりましたが、天気に恵まれたいへんな賑わいで素晴らしかったです。 然て、平成という時代を振り返りますと、我が国におきましては、誰もが言いますように暗雲立ち込めた活力の削がれた時代でした。特に自然災害や原発事故は本当に痛ましいし、政治家が「お国の為に」という心を失った時代でもありました。わたしが絶対に許せないのは「移民法(入管法改正)」です。こんな事をやったら国が亡ぶに決まっています。今回の「アイヌ新法」などは余りにも馬鹿々々しくて記事にも出来ません。よくこんな嘘を基に法律を作るものですね。移民法もアイヌ新法も法案が提出された段階で答は出ていたようなものです。こんな民意が反映されない政治なんて嫌ですね。早く腐れ切った自民党政権を倒さなければ此の国は持ちません。日本第一党さんも頑張っておられるし、また、チャンネル桜さんも新党を立ち上げられたので良い流れにはなっています。こういった本当の保守政党がもっと多く生まれることを望みたいです。今の野党などは論外です。そして正しい歴史教育が最も重要です。憲法とて人が作ったものである以上、新たに作り替えるのも人です。そんな時代を「令和」に求めたい。 此処から本題にはいります。 『六根淸淨大祓』 「天照皇太神の宣く人は則天下の神物なり、須掌靜謐心は則神明との本主たり。莫令心神是故に、目に諸の不淨を見て心に諸の不淨を不見、耳に諸の不淨を聞きて心に諸の不淨を不聞、鼻に諸の不淨を嗅て心に諸の不淨を不嗅、口に諸の不淨を言て心に諸の不淨を不言、身に諸の不淨を觸て心に諸の不淨を不觸ず、意に諸の不淨を思ひて心に諸の不淨を不想。此時に淸潔よき偈あり。諸の法は影と像の如し。淸く淨ければ假にも穢こと無し。説を取らば不可得。皆花よりぞ木實とは生る。我身は則六根淸淨なり。六根淸淨なるが故に五臟の神君安寧なり。五臟の神君安寧なるが故に天地の神と同根なり。天地の神と同根なるが故に萬物の靈と同體なり。萬物の靈と同體なるが故に爲所無願而不成就矣。無上靈寶神道加持。」 是の「六根清浄大祓」は式外社(うち一部の神社神道)・教派神道・寺院・修験道などで奏上されることで有名な祝詞です。わたしも一般の神社神道ですが、是の祝詞も年に数回ですが御神前でお唱え申し上げる事があります。是の祝詞の成立年は不詳ですが恐らく鎌倉期と思われます。内容的には、伊勢神道とは直接的な関係は有りませんが、倭姫命さま(垂仁天皇皇女、伊勢神宮斎宮)の信仰姿勢と理念が伝わってくる思いであります。 是の祝詞を読まれてお分かりの通り「身口意三業浄化」などの仏教思想からの影響のようにも思えますが、実は神道そのものなのです。日本の古い神典に神道五部書があります。此れは伊勢神道の根本教典される『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第紀』『伊勢二所皇太神御鎮座伝記』『豊受皇太神御鎮座本紀』『造伊勢二所太神宮宝基本紀』『倭姫命世記』の五書。特に倭姫命さまは仏教の教えで言う所の「方便」をたいへんに非難され、「信仰はお仕えの実践と真心」であることを思惟、実体験を通して熱く説いておられます。『倭姫命世記』は豊鋤入姫命(崇神天皇皇女)と倭姫命の二代にわたる斎宮八十八年間を伊勢の古伝承をもとに編纂された教典ですが、他の四書は鎌倉初期に書かれた教典と謂われ、偽書説も多い。しかし、鎌倉時代に入ると神道思想が整備されたものの教導に必要な適切な用語が無かった為、思想や実体験や霊能事象を仏教用語から仮て表現・記述するようになった。此の為、この時期に作られたと思われる祝詞には仏教や陰陽道を匂わせるものがあります。この辺の事情をよく理解しないと間違います。 また、是の五部書の果たした功績は大きく、其れ以前の神道は財力的に仏教勢力におされ、仏教宗派の一方的優位性解釈に依って、真言・天台に見る「両部神道」や「山王一実神道」等の「本地垂迹説」に拠る「仏主神道」が固定化していたが、是の五部書に依って初めて神道の側から仏教に対抗し、神祇を本位とし仏陀を従属的地位に置く「反本地垂迹説」や「和光垂迹説」を打ち出し、「神主仏教」の神道理論を確立し提示する事に成功したものだった。此の理論の裏付けとなった実正として天照大御神(天照大日靈之命、亦名を憧賢木厳之御魂天疎向津比賣之命)、天鈿女命、宇迦之御魂神、大山津見神、祓戸神、大国主神ほか多くの神々の霊験や霊言が確かなものとして有った。室町時代に入ると神道の一派として吉田神道(卜部神道)が神道・儒教・仏教・道教の四教の関係を説き、神道を万法の根本とし、「神主仏従」の理論に大成した。 そもそも「垂迹」とは、仏教でいうところの仏・菩薩が下界衆生を救う為、仮の姿を以って現世に顕現する事で、日本的な「生まれかわり」の考えとは別物である。此の垂迹思想は古くインドで仏教が諸神を摂取するのに用いられ、中国道教も是にならったといわれる。日本に於いては、神仏提携はすでに奈良時代に見られたが、平安時代に入って、本地である仏や菩薩が日本の神々に姿を変じて衆生を救うという本地垂迹説が生まれ、日本の神々は「権現」と呼ばれた。今日でも神社であるにもかかわらず「〇〇権現」と呼ばれる社があるが、蔑称ともいえる其の名残りである。また、垂迹である神と、本地である仏・菩薩との対応は必ずしも一定ではないが、おおむね阿弥陀如来の垂迹が八幡神、大日如来の垂迹が天照大御神と説いて、神社に付属して建てられた寺院である神宮寺では、神前祭祀を仏式で挙行し、神社の運営管理は社僧(別当)が行うようになって行った。 此の段までお読みいただければ「神仏習合」の大体の輪郭がお見えになられたかと思います。まだまだ説明が足りませんが、一応、次回は別のテーマで書きたいとおもいます。 今日はDVD緋牡丹博徒でも見ながら一杯やりますか。あの当時の藤純子さんは本当に綺麗でした。高倉健さんもよかったですね。高度成長期の真っ最中でした。 令和元年、5月8日(本田出版社主) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 【神仏習合 第二段 其の二、遺跡にみる】 桃の花も咲いていい季節になりました。きのうはチューハイと焼き鳥で一杯やりながら外国ホラー映画を観てました。わたしは時代劇や戦争映画が好きなんですが。特にドイツ映画は好きすね。今の若い者たちはホラーのドキドキ感がたまらないと言う。わたしも昨夜は其れに付き合わされてホラーを観て了った。80インチのプロジェクター画面で観ていると恐怖に引き込まれていきます。しかし、わたしとしては本当に後味の悪い思いだけが残り、頭を切り替えようと、八代亜紀さんの音楽ビデオを流してほっとした気分に戻りました。八代亜紀さんの歌といえば北国をイメージしますが、其の歌唱力は言うまでも無く素晴らしいし、其の歌詞の文学的表現が本当に見事です。日本人特有の情趣感というか古典文学の「物の哀れ」を感じさせます。 東北といえば青森県に三内丸山遺跡(縄文前期・中期:5000-4000年前)がありますね。近年、此の大規模集落跡の調査からは多くの事がわかってきました。食生活の面を見ますと、地中から植物の種が33種類(うち食用が17)、米は見つかっておりませんがヒエが見つかりました。また、魚の骨は26種類、大小動物の骨は30種類です。他の縄文遺跡ではよく見られるイノシシ・シカを食用にした骨が見つかっていないようだ。縄文人は結構なグルメだったようです。此処の遺跡で注目を浴びたのは何といっても6本柱の巨大な構造物の存在だろう。是の柱は直径90㎝前後の栗の木で、正確に4.2メートル間隔で(寸法の概念?)垂直に如何なる方法で建てたかは不明ですが、其の土木工法は版築工法といわれ、粘土と砂を混ぜたものを柱の根本周りに入れ込んで突き固めたもので、古代の寺院建築にも用いられた。此の遺跡が発見されるまえ迄は、版築工法は仏教と共に渡来した技術とされたが見事に覆している。そのほか出土品に組紐・縫い針・編みポシェット・漆工芸品・ヒスイ等があります。是のヒスイは600㎞離れた糸魚川(新潟県)が原産である。ヒスイはモース硬度が8程(ダイヤモンドが10)あって、わたしもダイヤ刃リューターで試してみたが、あまりの硬さに穴を明けるのを断念しましたが、本当に太古の勾玉の紐穴加工は凄い。 此の縄文遺跡に限らないが、特に三内丸山ではムラの左右東西に大人の墓地と子供の墓地とが別けて在って、子供の埋葬時には甕棺に小石が必ず数個入れられているのが確認されています。また、同じく中期縄文遺跡で東京都新宿区加賀町2丁目遺跡では人骨が完全な状態で発見されています。特に関東ローム層では酸性度が強いため人骨は200年ほどで溶けてなくなりますのでたいへん珍しい事です。人骨は16体が確認され、全て伸展葬で皆頭部を東向きに埋葬されています。其のうちの12号骨では副葬品と一緒に廃屋墓と呼ばれる形式で見つかっております。是は『古事記、上巻』の「天若日子の葦原中津国へ派遣」の段に見られる喪屋(殯宮:あらきのみや)と同じ宗教的儀礼である。また、遺体の頭部を東側に向ける行為は太陽を崇める信仰思想が確立していたことを思わせます。此れも『古事記』の東征の段での「日の神を背にして・・・云々」の記述でよくわかりますね。 前出の子供の甕棺に小石を入れるという行為は、学者の間では色々といわれていますが、あくまでもわたしの考えとして、環状列石(ストーンサークル)と深い関連性があるとみています。最初にことわっておかなければいけないのは諸外国に見る環状列石とはハッキリと別けて考えなければならない。すぐに学者は外国の事例を持ち出して無理やり当てはめようとするが此れは大変危険な考えである。其れは埴輪や土偶の考察にもいえます。 国の史跡に指定されている縄文後期の大規模環状列石で知られる北秋田市脇神の伊勢童岱遺跡(標高45メートル・広さ20ヘクタール)があります。是の環状列石が他に見られるものと異なる点は、石円が四つも集中して在ること、骨壺が発見されていること、周辺地域から無数の土偶や祭祀の道具が出土していることです。一抱え程の川石を無数に並べ円を造っているのですが、出土した土器の炭素年代測定により10世代200年かけて造られたことが判っておりかす。多少の知識があれば誰が見ても斎場(祭場)だと理解できることでしょう。学者の間では、天文思想や日本人固有の再生哲学などさまざまだが、わたしの考えとしては後者に最も近い。 石円から出土した骨壺だが、徳利の様に首が小さい事から、火葬の風習が既にあった事を否定できない。此処でも、火葬は大陸渡来の風習と学んできたことを覆している。子供の甕棺の小石にしろ円石にしろ、「結合」と「母の胎内」と「魂の安定」と「再生」の考え方が頭をよぎる。其の上で、仏教伝来の遙か以前の日本人には哲学として「輪廻転生」「輪廻再生」の思想が形成されていた事が想像されるのです。神道には「〇〇産日神(ムスヒカミ)」が複数みられます。是の「ムスヒ」は「結ぶ」で「魂の生成」を意味します。ちなみに、我々が普段食べている「おにぎり・おむすび」の原義の由来はここにあります。 此の円石ですが、我が国縄文人は「石」に対して特別な思いというか哲学をもっています。石は概念として大きくても小さくても、重くて、硬くて、時には道具として、時には武器として、そして時には墓標に。此れは今の日本人にもいえる事ですが、DNAの太古の記憶として「沈める」「鎮める」「静める」の精神性が無意識の中に存在します。墳墓の石橋(石を敷き詰めて覆う)、土葬した盛土の上に置く、外敵から護る石垣、神社仏閣の礎石、お守り石、身近なところでは家庭の漬物石、また禅寺の石庭の石もあります。 神道、『延喜式祝詞』には「堅磐(石)尓常磐(石)尓斎比奉」の表現が多く見られ、また、「湯都磐村能如・・・」も見えます。是の「湯都磐村(ゆついはむら)」とは「霊力の有る石群(いはむら)」の意味です。此処まで書いてくると、何故、鹿島神宮・香取神宮に「要石(かなめいし」が在るのか、また何故其の地が社に選ばれたのか、想像がつきますね。そうです、海洋国家である此の国土(北海道から沖縄まで)の中心として「鎮め治める」の願いが武神を祀ると共にあった訳ですね。 何年も前にブログで書いたことですが、土偶と縄文土器の分布から縄文文化圏は東日本です。特に其の古さからいえば津軽海峡を挟んだ北東北および北海道南部あたりが中心と思われます。いつの時代に沖縄まで是の文化人が到達したかは不明ですが、『古事記』から推察すれば日向三代の頃と、わたしは考えます。天照大御神さまや天鈿女命さまたちが御存命の高天原時代が関東に有ったのか、それとも九州に有ったのかは不明ですが、只、地名で比定するのは危険です。 是の段は「神仏習合」ですが、此処までくだくだと書くのは、太古の日本人の精神構造に僅か一歩でも迫らなければ、聖武天皇以降、蒼人草(全て国民)が仏教を受け入れていった土壌が解らないからです。国学は文学でも年表学でもありません。芸術・医学・工学・地理学・占学など各分野多岐に渡っての知識が必要になるところが難しい。わたしに出来る事は僅かですが、また、考えを押し付けるものでもありません。 今日も煙草が美味かった。夜の氏神さまへのお勤めの後は一杯やりながら八代亜紀さんの石狩挽歌でも聴きましょうか。 平成31年4月15日(本田出版社主) --------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------- 【神仏習合、第二段(其の一)】 是の段では神仏習合について書きたいと思います。学校のオサライになって了いますが「仏教公伝」は外せません。 『日本書紀(巻第十九)』の欽明天皇十三年冬十月の条に「百濟の聖明王。西部姫氏達率・怒唎斯致契等を遣はし、釋迦佛の金銅像一軀、幡、蓋(きぬがさ:天蓋)若干、經論若干巻を獻る。・・・・・使者に詔して云はく。『朕(私)、昔より來(このかた)、未だ會(かつ)て是の如き微妙の法を聞くことを得ず、然れど朕、自ら得決(さだ)むまじと』・・・・・・物部大連・尾輿、中臣連・鎌子、同じく奏して曰く。我が國家、天下に王とまします。恒に天地社稷(くにいへ)の百餘八十神を以て、春夏秋冬に祭拜(いはひ)給ふことを態(わざ)と爲す。方今(いま)、改めて蕃神(異国神)を拜(いは)ひたまはむこと、恐らくは國津神の怒を致したまはむことをと・・・・・・(略)。」と見えます。 百済の聖明王が釈迦牟尼仏像や経論などを献じた。天皇は使者に詔して、「私は今まで此のように立派な教えは聞いたことがない。しかし、此れを受け入れるかどうかは自分一人の考えでは決定しかねる」と悩みなされた。そこで天皇は蘇我大臣稲目宿祢の考えを聞くと、稲目は「西の隣の国々は皆尊く拝んでいます。日本だけが此れに従がわない訳にも参りません」と答えます。しかし、物部大連尾輿と中臣連鎌子は「わが国の天下を統治される天皇は、恒に天地の多くの神々を以って春夏秋冬における祭儀を勤めとなさっておられます。今更に外国の神(釈迦)を礼拝するなどしたら、おそらく日本の神々の怒りに触れることになりましょう」と天皇に申し上げた。天皇は仏像の管理を稲目に任せたが崇仏・排仏の議論が高まり、後に、用明天皇崩御後、蘇我氏と物部氏の両者で武力衝突に至った。結果、物部は惨敗し政治の表舞台から長らく消えることになった。 物部氏は『記紀』の神武天皇東征の段に登場する饒速日命(ニギハヤヒノミコト)を始祖とし、国の安寧を司る神道の祭祀権を持っていた。また朝廷における発言力がたいへん大きかった。そこで、新興勢力であった蘇我氏は仏教の興隆を以って、物部氏を政治の中枢から後退させ、替わって蘇我氏が権力の座に就こうとした。 物部氏側に立って排仏を訴えた中臣連鎌子は『古事記』の天岩屋戸の段に登場する天児屋命(アメノコヤネノミコト)を始祖とする。この神は、岩屋戸にお隠れになった天照大御神を再び招来すべく、初めて祝詞を唱えました。後に此の子孫はたいへんに繁栄し、政治の中心的役割を果していきます。 話は戻りますが、欽明天皇(即位:531~571年)の時代より国内は度々疫病に襲われ人々は苦しんだ。祝詞『大祓詞』中段の「国つ罪とは云々」の部分に「白人胡久美」と見え、伝染性皮膚病とみられ、中国大陸から持ち込まれた疑いが強いとする見方が多い。 また、女帝推古天皇朝(在位:592~628)では蘇我厩戸皇子(聖徳太子)を摂政とし、中央集権体制を確固たるべきものにする為、仏教と儒教を以って礼節と倫理(典拠は儒教の『論語』『礼記』)を重んじた官位十二階と憲法十七条を制定し、「国家仏教」の足場を固めていったが、身分制管理政策が強い権限を生み、役人と地方豪族とが手を結び不正が横行し庶民を苦しめていた。推古天皇・聖徳太子の死去後は、豪族層たちが力を増大させ、私有地・私有民の拡大が加速し、部民を利用して土地を勝手に兼併し、租税の多くを横領していた。蘇我蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)父子の専横ぶりは甚だしく、其の蝦夷の甘橿丘(あまかしのおか)の大邸宅は天皇家をしのぐ程になった。 更に庶民を苦しめたのは平城京遷都(708:和銅元)に向けて、役民として動員された公民の犠牲であった。和銅五年の詔に「諸国の役民、郷に還らむ日、食糧絶へ乏しくして、多く道路に饉ゑて(餓死)、溝壑(こうがく)に転填すること、其の類少なからず。」と有り、国司等に救済を命じております。是の労役に駆り出された人々の食糧や往復費用は自腹であった為、課役の計帳にある年齢を偽り、あるいは得度して僧侶になり、あるいは浮浪・逃亡などして課役から逃れようとした。そして其の家族や村が破壊されていった。 平城京は多くの労力と財力を要したにもかかわらず僅か2年で遷都が可能となったが、其れは茅葺屋根の竪穴式住居(平安中期まで)に住む、政争や仏教とは無関係の一般庶民による力であった。また律令制の租税(調:物納税)の荷札や品々からかなり高い生活文化を築いていたことが想像できます。確かに、庶民の住居は発展性に乏しいが、斎場を中心とした円形配置の居住環境は太古からの焔の祈りの型(かたち)としてあった。 わたしは以前から神代文字(阿比留文字・オシテ文字など多種)は存在したと主張しております。その都度、周りから馬鹿にされますが。十五代応神天皇の時に、初めてわが国に漢字(千字文)が渡来しましたが、いきなり其れを理解し活用できたわけではないはずです。まず概念の問題として、記号としての文字、意味としての訓み、段階的な「置き換え」の作業がなければ無理だと思います。わたしが考えますには仏教公伝の後に太古の貴重な資料が焚かれたと思っています。 次の文は『続日本紀』聖武天皇(在位:724~749)、天平十三年三月二十四日の条であるが、国を、国民を、慈しむ歴代天皇の思いと、聖武天皇の「国分寺」建立(741年)の願いが窺い知れよう。あまり『続日本紀』を見られる人は多くないと思いますので、原文から紹介しましょう。 「乙巳。詔曰。朕以薄德。添承重任。未弘政化。寤寐多慚。古之明王皆能光業。國泰人樂災除福至。脩何政化。能臻此道。頃者、年穀不豐。疫癘頻至。慙懼交集。唯勞罪己。是以、廣爲蒼生、遍求景福。故前年馳驛增飾天下神宮。去歳。普令天下造釋迦牟尼佛尊像高一丈六尺者各一舗。并写大般若經各一部。自今春巳來。至于秋稼。風雨順序。五穀豊穣。此乃徴誠啓願。靈貺如答。載惶懼載懼無以自寧。案經云。若有國土講宣讀誦、恭敬供養。流通此經王者。我等四王。常來擁護。一切災障、皆使消殄。憂愁疾疫。亦令除差。所願遂心。恒生歓喜者。宜令天下諸國各令敬造七重塔一區。并写金光明最勝王經。妙法蓮華經一部。朕、又別擬、写金字金光明最勝王經。毎塔各令置一部。所冀。聖法之盛。与天地而永流。擁護之恩。被幽明而恒滿。其造塔之寺。兼爲國華。必択好處。実可久長。・・・・・・(略)。」 是を簡単な現代語訳をしますと、 「二十四日。詔曰く。朕(私)は德の薄い身であるが、國の長としての重い任務に就いている。しかし、未だ広く国民の為の政治を敷くに至っていない、私は寝ても覚めても恥ずかしい気持ちでいっぱいです。昔の王たち(天皇)はよく業績を残している。國は泰平にして、人々は楽しく、災害も無く幸福に満ちていた。どうすれば歴代君主のような政治が出来るのだろうか。この数年、凶作が続き疫病(伝染病:天然痘?)が流行している。私は恥ずかしさと至らなさで自分を責めるばかりだ。 そういう訳で、全国民の為に幸福を求めたい。以前(天平九年十一月)、天下の(各地の)神社を修造を行ない、同じく各地に一丈六尺(約4・8メートル)の釈迦牟尼仏像一体を造らせ、併せて大般若経を写させたのも其の為である。其の功徳いただいて、今年は春より秋の収穫期まで、雨・風、程良く五穀も豊かに稔った。此れは誠の願いが通じたためである。神仏のたまわりものである。其の霊験はおそろしいほど著しいほどである。経に曰く、『若し国中で是の経を読誦し、敬い供養し、是の経を広めれば、我ら四天王は常に来て守る。一切の災いも皆取り除く。また、心の病や疫病も除かしめる。そして仏はすべて願いを聞き入れ、歓喜に満ち溢れよう。』とある。そこで、天下諸国にそれぞれ七重塔一基を敬い造りて、併せて金光明最勝王経と妙法蓮華経を各一部づつ写経させることとする。私もまた金文字で金光明最勝王経を書き写し、塔ごとに一部づつ納め置きたいと思う。聖法盛んにして、天地(あめつち)永く続き、仏のご加護が幽・現世界に恒に満ちることを願う」。とあります。 聖武天皇が仏塔建立にこだわったのは、『大般涅槃経』に「仏塔を建てること、大母指の如し」の一文からだろう。聖武天皇以降の歴代天皇は仏教に帰依し擁護していくが、天照大御神を皇祖神とする皇室神道は今日まで受け継がれております。 平成31年3月18日(本田出版社主) -------------------------------------------------------------------------------------- 【日本人と神社、第一段】 「日本人と神社」「神仏習合」について書いてみたいと思います。数年前まで同人の方にホームページの記事をお願いしていた頃に何度か載せていたテーマですが、今回はわたしなりに書かせていただく訳ですが、説明不足の点がありましたらご容赦下さい。 日本全国津々浦々の神社庁が統括する神社は大小あわせて凡そ8万数千社ほどあります。平安時代初期の律令制下の法制書『延喜式』神名帳には、官幣社(大・中・小)七百三十七座、国幣社(大・中・小)二千三百九十五座で合わせて三千百三十二座(二千八百六十一社)が登載されており此れを式内社といいます。中でも国家の一大事(内外事変、気象変動、災害、疫病など)には臨時祭(特別祈願祭)を執り行う神社を名神社といい三百六座が指定されていました。また平安中期(1081年)には、同じく国家の一大事の時には朝廷から勅使が遣わされ奉幣、特別祈願が執り行われた神社を「二十二社」といい、一種の社格としてみられていた。参考までに「二十二社」は次の通りである。上七社(伊勢、石清水、賀茂上下社、松尾、平野、稲荷、春日)。中七社(大原野、大神、石上、大和、広瀬、竜田、住吉)。下八社(日吉、梅宮、吉田、広田、祇園、北野、丹生川上、貴布禰)の二十二座で、伊勢神宮を除き朝廷の近くに集中している。特に伊勢神宮、石清水八幡宮、賀茂神社(賀茂御祖神社、賀茂別雷神社)は重要視され、三社奉幣がされていました。 此れら3132座の式内社のほかに民間の単立神社が江戸後期まで続々と創建されて参りました。明治期に定められた社格制度の民間社には、府県社、郷社、村社、無格社があります。是の無格社というのは神饌幣帛料の供進などを受けられない最も低い地位にある神社と解釈されているが、必ずしもそうでは無く、創建の縁起・社の霊験などによって、領主(国主)から領地(社地)を授かったり、御黒印や金一封の祝い金を受けている神社も多い。いわば「無格社という社格」なのです。 室町・江戸時代初期、諸国大名は農生産の拡大と産物のブランド化・生活水準の向上に力を注いでいおりました。また、農繁期には藩の重臣も農民と一緒になって鍬を取り田畑を耕していた。領地民は農業のほかに治水工事、幹道整備などに普請として強制的にかりだされていた面もありますが、何等かの報酬や税の軽減も受けていたようです。農民とはいえ「いざ戦」とういう時は武器を持った農兵に転じる訳で、たいへん大切にされていました。 豊臣秀吉は天文18(1549)年、F・ザビエルによる宣教以来、西日本から広がっていくキリスト教の浸透の速さに、教義と協会領の主張など国政に害を為すとしてバテレン追放令を出したが、後にスペインの商船サン・フェリペ号事件(1596年)というものが起こりました。其の商船が航海途上に暴風雨に遭い土佐国浦戸港に漂着したが、積荷と乗組員の証言から日本人婦女を奴隷取引にしていた疑いがもたれた(この辺の事は学校の教科書および辞書には載っていませんのでnet等で検索して下さい)。また、日本に多く来ていたキリスト教宣教師が日本侵略の意図をもった洗脳工作の一波と判断し、亰・大阪で活動する宣教師および日本人信徒の計26人を捕らえ、長崎に送って十字架に処すという素早い対応をとっています。 豊臣秀吉から発した「禁教令」は後の江戸幕府も其の方針を受け継ぎ、島原の乱以後はキリシタン絶滅に向けて、幕府直轄領の寺院に対して「宗門改(戸籍・宗教)」の強い権限を与え幕府に報告させていた。しかし、キリスト教の根は深く、神仏像(神仏習合思想による)を造って天照大御神像や観音像を聖母マリアと見た立てて信仰するなどあって摘発が難行し、神道も異国がもたらした災いに巻き込まれていった。江戸幕府は「国家仏教」を国の体制として、「宗門改」「寺請制度」によって、全ての国民を必ずどこかの寺院に戸籍を置かせた為、中世以前まで行われていた神葬祭は出来なくなり、葬式は必ず寺の僧侶によって執り行われるようになった。此れは諸大名以下武士も同じである。 そんな中で神社の役割は、祭りを通して人と人とが絆を強くする場であり、神々を通して先祖と向き合う祈り場でもあった。また、秋に収穫したところの最も優れた稲(荒稲:あらしね)を神前に捧げ納め、其のモミを来年春に蒔くという繰り返しによって、稲の品質改良が信仰のもとに行われていきました。秩序を掌る太陽神であられる天照大御神、二十四節気をつげる月読神、水を湛える弥都波能売神、稲を守る宇迦之御魂神等々、まさに神のご神徳は過去の積み重ねの叡智そのものてした。 作物や海産物が多くとれる余裕のある村では神社を複数創建し勧請しています。例えば、春に一社、秋に一社と御祭神を勧請すれば、年二回の例祭(村祭り)がある訳です(明治期の神社改革で1村1社制に統廃合される)。民間社の場合は古代スタイルで、神と共に楽しむ「祭り型信仰」であったため、祭儀の後は田囃子・芸能・酒盛りを二晩ほどやっていたようだ。国の普請事業といえども、戦でもない限り国主は口出ししないのである。とうぜんながら武士も神饌や祝金を持って祭りに参加する。こうして国主は「締めるところは締め、緩めるところは緩める」の臨機応変な対応で農民の流出を抑え活性化させていきました。また他国の神社に属する御師(おし:伊勢神宮ではオンシ)の往来を自由化し、他国の神社の御祭神が各村々に祭祀されるようになってもいきました。もともと此の御師というのは、神社の下級神職で、参詣者の案内や、休憩所・宿泊施設などを経営していたが、のちに出張祈祷の依頼を受けて遠隔地まで足を運んでいました。 最もよく知られているのは神宮(伊勢神宮内外社)の御師である。神宮は皇室の宗廟として、未婚の皇女によって奉祀され、天皇以外の奉幣は許されなかったが、鎌倉時代に入って伊勢信仰が徐々に広まり、室町以降は地域に差はあるが一般庶民にも天照大御神(内宮女神)と豊宇氣毘売神(外宮女神)の御神徳を分け広めようと、下級神職が伊勢大麻(麻紐)を持って各地へ布教にあたっていた。其の大麻は伊勢神宮で頒布される御神符に当たるものである。今日、町や山里で見かける神明宮(社)や天祖神社というのは、伊勢から布教に来られた御師の大麻を御神体として祀られた社なのである。特に天祖神社は修験道・山伏(両部神道、山王神道などの垂迹説に基ずく神道解釈による)の心の拠り所として、霊妙あらたかに修行の励みになっていました。 よく時代劇などで、農民は無知で貧しく圧政にしいたげられていたかのように描かれているが特殊な地域・事情を除いては各藩あまり酷い政策は敷いてはこなかった。むしろ現代のほうが不条理で野蛮な面が多いと思える。いつの時代にも貧困はあります。物・質の面での貧困。精神面での貧困。国民一人一人の日本を意識した自己定義を失くした時こそが本当の貧困の始まりであり、其処に神は存在する理由も無くなってしまいます。 確かに戊辰戦争に敗れて貧困に陥った長岡藩の「米百俵」の例などはあるが、それは戦争が引き起こした貧困である。また、明治43年の日韓併合により、本来国内国民の為に使うべき財を朝鮮半島にどんどん注ぎ込んだ為に国民は疲弊し、とうとう地方から困窮が広がり、作物の凶作の年には多くの餓死者・自殺者を出した。特に東北各県での死者は多く、若い女性は一家を助ける為に身を売らなければならない迄に陥って了った。其の中には士族の女子も多く含まれたという。是は日本政府が犯した国民への大罪であった。朝鮮半島を日本と同じ迄に文化水準を揚げようなどと、いったい誰れが言い出したものか。 余談ですが、神奈川県西部を流れる酒匂川の土手に松の大木が美しく何処までも立ち並びます。此の松は一農民の二宮金次郎13歳の時、松苗200本を買い求めて、其の松の苗を一本一本手植えしていったものです。また酒匂川は大水による氾濫が度々起こったので、水害を無くす為、金次郎が思案した結果、かつて武田信玄が釜無川の氾濫を食い止めた治水方法を導入する為、小田原藩に進言し、藩侯から治水予算をもらって見事に治水工事を成し遂げている。さらに、1833年~1836年の凶作続きのとき藩にかけ合って城内の米蔵を開けさせ農民救済により、小田原藩では一人の餓死者も出さなかった。また金次郎は北関東から東北の農村復興事業の仕法に着手、其の数は600ヵ村に及んだ。金次郎は説く、「小さな積み重ねでも必ず成果があがる」と「績小爲大」の改善・努力と希望を。其の偉大な金次郎を祭る神社が小田原城の蓮池(お堀)のわきに鎮座する県社報徳二宮神社である。 二宮金次郎(尊徳:1787-1856)は相州小田原藩の領民(農民)は14歳の時に父を、16歳の時には母を失い、田畑は酒匂川の氾濫で流された。苦学をして道を拓き、農学から陰徳・勤勉を説く思想家でもあった。金次郎は小田原藩の農政に寄与し城主大久保忠真から表彰を受け、のち相模、駿河、伊豆三国、常陸国真壁、芳賀両郡など東北まで600ヵ村の復興に従事。幕府の日光神領。天保13(1842)年御普請役格に任ぜられている。 わたしも小田急線で栢山駅(神奈川県)に降り立ち現存する金次郎の家を訪れたが、ほんとうに小さな茅葺の農家であったことが、其のたたずまいに正直・勤勉・陰徳の教えが伝わってくるかのようであった。わたしは二宮金次郎大先生の像(家にある小さな銅像)を眺めながら、有能機智な日本人はいったい何処へいったのだろうかと、学習しない今の政治をみて思います。 平成31年2月26日(本田出版社主) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 【密嚴院發露懺悔文】 『我等懺悔す、無始より此の方、妄想に纏はされて衆罪を造る。身口意業常に顛倒して、誤つて無量の不善の業を犯す。珍財を慳悋して施を行せず、意に任せて放逸にして戒を持せず。屢忿恚を起して忍辱ならず、多く懈怠を生じて精進ならず。心意散亂して坐禪せず、實相に違背して慧を修せず、恆に斯くの如きの六度の行を退して、還つて流轉三途の業を作る。名を比丘に假つて伽藍を穢し、形を沙門に比して信施を受く。受くるところの戒品は忘れて持せず、學すべき律儀は廢して好むことなし。諸佛の惡厭し給ふところを慙ぢず、菩薩の苦惱するところを畏れず、遊戯笑語して徒らに年を送り諂誑詐僞して空しく日を過ぐ。善友に随はずして癡人に親しみ、善根を勤めずして惡行を營む。利養を得んと欲して自德を讃し、勝德の者を見ては嫉妬を懐き、卑賤の人を見ては僑慢を生じ、富饒の所を聞いては悕望を起し、貧乏の類を聞いては常に厭離す。故らに殺し誤つて殺す有情の命、顯に取り密かに取る他人の財、觸れても觸れずしても犯す非梵行。口四意三互に相續し、佛を觀念する時は攀緣を發し、經を讀誦する時は文句を錯る。若し善根を爲せば有相に住し、還つて輪廻生死の因となる。行住坐臥知ると知らざると、犯すところの斯くの如きの無量の罪、今三寶に對して皆發露し獻る、慈悲哀愍して消除せしめ給へ。皆悉く發露し儘く懺悔し、乃至法界の諸々の衆生、三業所作の斯くの如きの罪、我皆相代つて儘く懺悔し獻る。更に又其の報を受けしめ給はざれ。』 是の懺悔文は興教大師覚鑁(かくばん)が求道の修行中に書いたものとされる。覚鑁(1095-1143)は肥前の人で、真言宗御室派の総本山である仁和寺(今の京都市右京区)で真言密教を学び、後に高野山(和歌山県)に大伝法院建立し、金剛峰寺の座主を兼ねていたが、周囲の反対にあって紀州根来に移って円明寺を建立している。新義真言宗の祖として、其の事相(密教修法)の門流は伝法院流と謂われる。 近年、他界した母の夢をみることが多くなりました。わたしがまだ10代・20代の若いころ、是の『密嚴院發露懺悔文』をよく仏壇の前で母と一緒に唱和したものです。いま思うと親というものは本当にありがたいもので、生きる杖となる「智慧」を授けて下さったことに、いまさらになって感謝を覚えるのです。わたしは二十柱の御神(おほんがみ)を祭る斎主ですが、此処に書かれている「佛」を神道の「神魯岐・神魯美命さま」に云い置き換えても、自戒の寄る辺として心に置きたい。 『密嚴院發露懺悔文(ルビ付き草書体)』、ファイル名(mitsugonin.pdf)は下記からダウンロード出来ます。プリントアウトしてご使用ください。 http://hondasyuppan.iza-yoi.net/mitsugonin.pdf 平成31年1月31日(本田出版社主) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 【女正月(おみなのしょうがつ)】 一年の最初の月(睦月)に新年の祝をする三が日、あるいは松飾のある期間である五日または7日迄を「松の内」、大正月というが、此れに対して旧来の15日正月を小正月といって祝う風が今日も残っている。また大正月を男の正月とたとえるに対して小正月は女正月といういわれかたもした。もともと小正月とは、唐制の朔旦正月が輸入普及する以前の、月の盈虧(みちかけ)によって、満月から満月までを一か月と定める暦法で、満月を年の始めとする正月(望の正月)である。後に中国からより進んだ暦術が輸入され、朔旦正月が官によって励行されるようになっったが、中古平安時代になっても朝廷の正月行事には望の日の正月を祝う行事が残り、そのまま今日でも東北地方を中心に一般家庭では太陰暦による旧来の正月を祝う風がある。また月の運行変化になぞられて女性の生理的周期を「月のもの」と呼ぶことからも小正月は女性と観月風情との関係がある。それと、婦人の回礼は大正月の四日以後に行う習慣があり、此れは単に元日そうそう男客に先立って、女客に来訪されて長話されては困るという理由で忌むというもので差別的なものではない。一般的には女性の回礼は三月の節供まではよいとされていた。 岩手県北部九戸(くのへ)村では12月大晦日を男の年取というのに対して、正月14日すなわち小正月の前夜を女の年取、女の年越といっている。同じく長野県安曇(あずみ)地方でも、女の年取は14日の晩のことで、この日は女性の労をねぎらう日として夕飯の支度は男が行うのが習わしとなっていていた。また長崎県西彼杵(にしそのき)村には14日を「女子(おなご)の正月」といって、女たちが磯に行ってミナ(ニナの別名:巻貝)を採り、大根の芽立ちとあえたヨゴシという料理を作って食する風習がある。さらに青森県下北郡東通村では、正月15日が女の正月で、其の日は女が晴着を着て社寺に参り、翌16日には女たちだけで幾組かに分れて村内を廻り、朳歌(えぶりうた:雪掻き歌)を歌って米銭(米代)を集め、それで女たちだけの酒宴を大々的に開くのである。秋田県鹿角(かずの)郡などは、正月16日以後の半か月が女子の正月で、女たちの休み日だといっている。此のことからも東北地方では小正月を「花の内」といって大正月と分けている。 また、対馬では小正月のことを「送り正月」とか「戻り正月」ともいうが、大正月が済んだ後に、再び正月が来るのでこういう。また正月の鏡餅を下げて、水菜青汁として食べる祝儀の20日を女の正月といっている所も多くある。武家では20日を具足開といい、具足・鎧に供えた餅を雑煮にして食するのを「刃柄(はつか)を祝う」といい、婦人は鏡台に供えた鏡餅を「初顔祝う」といって其の餅を下した。ともに二十日に掛ける縁語として祝っていた。 平成31年1月7日(本田出版社主) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 【国のありかた】 こないだ茨城県の那珂市議会議員選挙が行われた。日本第一党から名乗りを挙げた候補者が2,800票を得たが惜しくも僅差で落ちたそうです。しかし保守層の強い茨城でよく頑張って下さいました。新しい清々しい風が吹いたのだと思う。益々の躍進を期待したいところですね。 其れにしても12月8日の入管法改定の成立は予想されていたとはいえ残念だった。参議院など衆議院のコピーのようなもので全く役目を果たしていない。国会議員は此の移民法とも言える法律が此の国の将来にどのような影響を及ぼすか全く分かっていないようだ。海千山千魑魅魍魎の類が欲に目がくらみ国を破壊しようとしている。わたしは此の法律だけは許せないのである。安倍総理は最後まで「人材が・・・、労働人口が・・・」と言い訳していたが、何のことはない、やる気さえあれば簡単に解決出来る事である。財政出動をし、国防・インフラに力を注ぎ、国民の地方の労働賃金を上げ、高収入高消費で回転させていけば税収も上がる。外国人を一から育てて労働に就かせなくても、自ずから民度の高い優秀な日本国民が既に待機状態であるではないか。国会議員は軸足を何処に置いているのか自問自答してほしい。此の国の20年後が恐ろしい。 わたしの尊敬してやまない武将の一人である武田信玄(晴信:1521~1573)は国政を誤った父信虎を駿河の今川義元の下に追放し、その後、国主となった武田晴信は甲斐・信濃を一代で統一し平定した。特に甲斐国民の安寧を祈願し開墾・治水工事・鉱山開発や国防に力を注いだ。信仰心篤くたいへんな軍略家であり、武田家に伝わると謂われる甲陽軍艦兵勢書なるもので兵法のほかに占術も行っていたようである。武田の居城である躑躅ヶ崎(つつじがさき:山梨県甲府市)は父信虎が石和から移り住んだ館であったが、晴信の代となって信濃・駿河・上野と版図を広げたが躑躅が崎の居城は城郭を持たない平屋造りのこじんまりとした館であった。また堀は一重の無防備なものであった。「人は城、人は石垣、情は味方、仇は敵なり」と晴信は詠っている。領地そのものが信頼と絆で成った大居城なのである。其れにしても信玄一代で落とした砦や城の数は半端ではない。この偉大な武将の魅力は何といっても「計画性・指導実行力と領民を大切にする心」だと思う。 川中島で刃を交えた越後の上杉謙信も武田信玄と共通するところは「信仰心」と「領民の為の政」だった。だから神は両者引き分けにせざるを得なかったのだろう。やはり「正義」は存在するのだと思う。人の世は方便を使ってどっちつかずの責任の無い事をするが、神と共に生きる者は欲を捨て「善」だけしかないものである。神もまた「善」と「悪」の二つのいずれかの評価しか下さないものである。また蒼人草(日本国民)が枉神(まがかみ)と戦うことは聖戦である。 ちなみに甲斐國一宮(山梨県笛吹市)は浅間神社で主祭神は大山津見神の姫神、木花開耶姫命(天孫瓊瓊杵尊の妃姫)で「火伏・安産」の神である。駿河の浅間神社(静岡県富士宮市、一之宮)と同じ姫神。 平成30年12月16日(本田出版社主) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 【これは大変だ】 11月27日、事実上の「移民法案」が衆議院を通過して了った。 わたしは此の日、国会中継とチャンネル桜の全国行動委員会の街頭演説をネットで観ていましたが、弁士の前を無関心を装って、立ち止まって聴くでもなく通り過ぎる人の様子を見ていて情けない思いだった。わたしも斎主として夜のお勤めで氏神さまに祈りを捧げました。しかし予想していた結果とはいえ衆議院を通過したのは大変残念だった。此の法案が憲法改正よりも何倍も重要法案であり、古いことを言うようだがそれこそ天皇の裁可でもなければ安易に進めてはならないものだったはずだ。此の法案には国会議員の殆どが反対していると言って置きながら、結局は保身に回り利権と議席にしがみ付いたものだった。野党の腑抜けぶりは分かるとして、与党議員の「党議拘束・・・」などと言うのはただの言い訳に過ぎない。みんな選挙の時は「全身全霊で国民に仕える」と言ってたのではないのか。だったら職を賭して仕事してみろと言いたい。それにしても今回の街頭演説は素晴らしかった、皆さんの言葉はきっと神魯岐・神魯美命さま預かる金剛盤に刻まれたことだろう。 今回の入管法は事実上の移民法そのものでまさに「中国様さあどうぞ」と言わんばかりに、日本という城の外堀を埋めるものだ。戦前までは国土・皇室・国民・国歌・国旗が全てイコールであり其れが国体(国柄)というものだった。わたしの父も戦時中は陸戦隊員として戦ってきたし、母の男兄弟二人は戦死している。両親がまだ生きていたら是のていたらくな今の政府を嘆いただろう。国会議員は国民の為に身を粉にして働き高成果をあげて当たり前、役に立たない者に血税で賄われる高報酬は与えられないし、国民の負託に答えられない者は国会を去るべきだ。民間企業はもっと厳しい。しかし、よくもここまで国を破壊するような売国ができるものだ。安倍総理には全国八万社にご鎮座されるところの鳥居をくぐる資格など無い。寺院の門もくぐれまい。 拙速に進めている此の裏に中国・韓国の影が見えてならない。安倍総理の「生産年齢人口減少」一点張りの理由は全くの嘘である。戦後高度成長期などは大変な人手不足だったが外国人などに頼らず乗り越えて来たではないか。今、高度人材・働き手が無いなどというのは全部嘘である。新宿や名古屋の人込みなどで、一言「先生!!」と叫べばどれほど多くの人が振り向くことか。日本ほど各種資格を持った国民はいない。わたしも今は活用していないが国家資格を持っている。うちの近所の農家のおじさんなんか小学校の先生だった。お隣の家の旦那さんは年金生活だが電気技師である。大会社のリストラで首にされる人たちの中には、技量測定や技能検定の合格資格や特殊車両の運転資格等を持った人がたいへん多い。ハローワークに職を求めて足を運ぶ人たちはみんな労働意欲を持った各分野の熟練者たちばかりである。しかし働きたくても厳しい条件から仕事が見つからないでいるのが実態である。関東の或る県で、若い人の求人でも時給800円程度の交通費無しでは働きたくても働けないではないか。是では健康保険税も国民年金も納められない。介護分野で人が不足しているというが有資格者は有り余る程いる。しかし時間単価が安いのと、中間業者がたくさんのマージンを抜いて了うものだから職として成り立たない。土木建設現場の仕事は不定期短期採用の人足扱いの為に労働者が定着しないし、危険と体力と経験と意思の疎通の必要な職種なだけに精鋭の人たちで固められている。政府が賃上げの方向に政策を取ると共に労働派遣法の見直しをしていけば高品質な物とサービスの向上がなされるはずだ。高収入・高消費の回転を計らなければ食品の安全性を上げることも出来ない。 勤勉で正直な国民性が技術・手法を習得し質の高い物やサービスを提供してきた、国内の仕事に於いては何一つとして妥協して当たられるような簡単なものなど無いのである。政府の言う「単純労働者云々」の話など此の国には当てはまらない妄想と言うべき詭弁である。言葉の解らない素人の外国人5人雇うよりも熟練した日本人一人雇ったほうがいいに決まっている。しかし其れでは日本人の給与水準が上がって了うので出来ないという闇の事情がある。政府や官僚の闇の計画は「日本の弱体化」である。派遣会社と組んで外国人労働者の奴隷化と使い捨て的な自転車操業の手段で以って日本国民を疲弊させるつもりだろう。日本語学校とか手厚い保護とか言っているが「闇の目的」の為のコストである。おまけに国民の為の社会保障費が外国人の為に食い潰され、其の上、消費増税が繰り返されるのではやってられない。 最近、沖縄で入管手続きの簡略化の動きがあるが、まさに中国人に配慮した国会議員の策謀を思わせる。また、「ヘイトスピーチ規制法」などという愚かな法律をつくって了ったが、あれの本当のところは日本国民の不満と言論封じ込めの為に前もって予定されていた法案だったのだろう。また自然災害多く、其の上隣国の脅威にさらされている今日、国防やインフラに金を使わず、男女共同参画などという国柄として必要のない事に多額な予算を使い、本来、男女が気遣いながら協力し合っていた心の部分に敢て壁を設け分断を行なっている。そして、日本の領海を侵犯して来る公船には武力で以って毅然と対処すべきなのに其れどころか無関心である。近年、日本列島の沿岸部などの土地が中国資本家によって買われているようだが、有事の際の地雷敷設や上陸舟艇止めの杭を打つにも支障が出るではないか。 更に、昨今の外国人観光客の多さは異常で、奈良・京都をはじめ主要な観光地には日本人も気軽に行けなくなってきているが、街のいたるところ目立つハングルや中国語の案内板は景観を壊すだけではなく安全保障の上で問題だ。諸外国では常に内陸戦を想定している、有事の際には敵軍の案内をしてしまう為、自国語以外の表示は無いのである。食の安全については前回のブログでも書いたが、使っている食材の単価からして、もうレストランやその他飲食店で安心して外食できる段階は過ぎた。我々日本人は最低最悪の料理を口にすることだろう。 早い話が、政府がプライマリーバランスを解除し、デフレ脱却と賃上げに心血を注いだ政策がなされていれば人手不足の問題など議題に上がらなかったし、実際のこと潜在的労働人口は十分すぎる程あるので、労働条件が改善されれば解決することだ。それでも人手不足で経営が成り立たないという会社があるのなら其れは業務縮小または業界から退場してもらう他ない。 是の「移民法」はハローワークのホームページを見ると分かるが、求人応募方法に職安(無料)と民間業者(有料)のどちらか一方を選択する画面になっている。明らかに労働者派遣業者と政府・省庁役人が利権と私腹を肥やす温床となっているが、核心部分は是の幕の裏側にある「闇の目的」である。極東アジアの地図を上下逆さにしてみれば子供でも気付くが、中国にとって地勢的に日本列島が邪魔でならない。其の国が、海洋資源豊富で自然豊かで無抵抗な気の弱い国民の住む列島なら誰だって奪いたくなるだろう。中国共産党は日本を掌中に治めると公言しているのだから着々と我が国内に触手を伸ばし、権利や所有など合法的に要所々々に布石を打って既成化していくのは当然だ、まるでアメーバのように。彼ら支那人は集団をつくり多数派を占めていけば必ず地方参政権求めていく事は火を見ずに明らかであるし、其の兆候は既に地方都市から始まっている。中国共産党の指揮命令で動く者が市議会議員や、やがて国会議員になっては大変な事になるのである。しかしながら中国政府に媚を打って私腹を肥やし平気で売国行為を行っている国会議員や官僚が多い。時代が違えば外患罪に近いものだ。 今回の「移民法」では30万人程度の受け入れとなっているが、法案成立し施行後は、なし崩し的に門口を開き、また民主党のような阿保な政権が再び立てば瞬く間に外国人100万人に拡大しているかもしれない。其の上、各々が皆家族を呼び寄せて国内に住み付いたらどうなるだろう。既に治安は悪化し警察も立ち入れない地域も生じている上、数万人の外国人失踪者さえ把握出来ていない。3万人以上の国内の韓国人売春婦さえも取り締まる事も出来なくて外国人労働者の受け入れなど考えられないことだ。ちょっと考えただけでも今後の怖ろしい事態が予測される。中国は虎視眈々と日本侵略を狙い、ソビエトは火事場泥棒的な姿勢で北海道を手に入れる野心を隠し持っている。北方領土主権は戦争でもしない限り戻ってこないだろう。韓国には毅然と向き合い、言うべきことは言い断絶を視野に大使召還も考えるべきだ。別に世界地図から韓国が消えても困る国はなかろう。今、ただ言える事は、日本国が移民雑種大国になった頃には日本人の愛国魂は既に無い。 平成30年12月01日(本田出版社主、個人的な意見として) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 【これでいいのか】 月日経つのも早いものでもう師走を迎えます。スーパーマーケットでは鏡餅が並び、新巻鮭の注文受付も始まっております。この新巻鮭なんかは本当に冬場の食卓の楽しみの一つですね。しかし最近の新巻鮭なんかは減塩熟成になっていて家庭では冷凍保存しないと駄目なようです。若いころ食べていた新巻鮭なんかは切り身を焼くと真白に塩が噴き出すほどで、一切れあれば御飯二杯はいけましたね。弁当用の紅鮭なんかもかつてはたいへん塩辛かったが最近のものは減塩になっていて食べても鮭弁を食べたという幸福感が湧かないのが残念だ。何しろわたしは塩辛いものが好きでたまらない。うちの両親も東北生まれなので生前は塩辛いものが好きだった。母親は脳溢血で亡くなったが、東北の人は是の病気で亡くなる人が多いようだ。わたしも是の予備群かもしれないが「ぽっくり逝ける」のなら是れも一つの幸いかもしれない。 最近、スーパーで売られている食品(主に加工食品)が異常に安いのに驚きませんか。東京・神奈川・大阪など主要都市を除けば物の価格がどんどん下がっております。わたしがよく買い物をする或る県内のスパーのことですが、「串だんご4本入りパック」が98円、「豆大福餅4個入りパック」が98円、「味噌750g入りパック」が98円、「スナック菓子一袋」が68円、「食パン6枚入り」が98円、「カップラーメン」が78円などなど、日替わりに商品が並べられ、ほぼ毎日が驚きの価格で売られています。中でも唖然としたのは、「豆大福餅」などは以前には250円前後で販売されていたもので、また「味噌98円」には安すぎて言葉が無い。しかし是れら商品はすべて国内製造会社なのです。確かにシールのバーコードの原産国表示はあてにならないが。いったい原価はいくらなんだろう。卸(おろし)に詳しいコンビニ店長が言うには、加工食品に関しては原価20%を切る商品も珍しくないそうだ。一例として100円の缶ジュースの卸価格は18円くらいだと言う。こうなると気になるのが食品の安全性だ。一体わたしたちはどんな物を口に運んでいるのだろうか。永田町で働く高給取りは気にならないようだが。更に今度の消費税10%なんてとんでもない事だ。会社の製造現場に外国人労働者(主に支那・上下朝鮮)が入り込むようになれば品質管理にも問題が起きそうだ。 だいたい日本国民の労働賃金および物価が低すぎる。是では安全な食品を適正価格で販売出来ない。或る関東の県の労働賃金は時給800円程で一律化している、おまけに交通費無しのところが多いという。是では消費が伸びないどころか生活維持さえも困難である。働きたい人は有り余っているのだから、せめて時給1200円くらいまで引き上げて活性化していく政府の政策が必要だ。外国移民なんて1000年早い話である。こんな話を国会で議論しているなんて「お頭の弱い集団のたわごと」としか思えない。しかし現実に馬鹿どもが立法・政治を行なうのだから、此の問題に関してどんな弊害があるか、最悪事態を予測しなければならない。 支那人や上下朝鮮人が我が国に大量に流入してきたからといって、日本国土が広がるわけでもない、水も資源も作物も限りあるものである。必ず軋轢(あつれき)が生じ秩序は乱れ日本国内は「狩り場」となるだろう。その時は、中国政府は「中国・日本自治区設立」の号令の下に、日本国内潜伏分子の蜂起と武装ゲリラ部隊が波のように押し寄せ、民俗入れ換えの大粛清が行われるはずだ。其の下準備として、日本の社会システムの研究の要員として、政界、省庁、自衛隊、マスメディア、企業、宗教団体,人権団体等に相当数入り込んでいると思われる。是の大粛清がいったん始まればチベットやモンゴルの比ではない。恐らく子供や若い男性を中心に虐殺が始まり、最終的には、日本人は1割程度しか生き残れないだろう。是れが中国大陸・朝鮮半島の歴史から学ぶ「民族の入れ替え」というものである。当然ながら我が国内に8万社ある神社も全て跡形もなくなる迄に破壊尽くされるだろう。寺院とて同じである。 皆さんは、世界に君臨する経済大国日本が、米国という味方があるのにそんな事になる訳がないと思って居られるかもしれませんが、米国は中国と全面戦争はできない。核と大きな消耗品(人民)を持った国とは戦えないのです。わたしの個人的な考えとして、このまま事実上の移民の扉を開けてしまえば、此のような恐ろしい現実が20年後くらいにやって来ると思われる。知ってほしい事は、今も国を案じない無知無能無策な拝金主義の政治家たちが日本という国を碁盤の上に置いて布石を打たせているということです。確かにそんな政治家たちを選挙で選んできた我々国民に責任はある。愛国・他愛・正直・有言実行が日本の国民性だったが、守銭奴が国会・永田町に陣を張り腐臭を漂わせている、この辺で日本古来からの日本型民主主義に切り替える時代に来ているようだ。 我々の先祖は限りあるものを上手に利用してきた。歴史背景と習俗、思考体系と道義観念、慈しみと畏敬、みな神世の時代に端を発した叡智の泉であり、其の水の流れは各時代に注ぎ、今日に迄、神道(シンドウ)という信仰が成り立っているのです。 本田出版は活動・運動家ではありませんが、国家存続の危機が予測される今、一個人わたしの考えとして問題提起したい。 平成30年11月25日(本田出版社主) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 【塩辛と怖い話】 今から20年以上も前のことになりますが、東京都内の或る洋食屋に友人と三人で入った時のこと、席に落ち着きメニューを見て、皆スパゲティーにしようと意見が一致した。わたしはミートソース・スパゲティーにたっぷりと粉チーズを振りかけて食べる思いでいたが、友人二人は急におかしな物を注文するようであった。何んと「イカ塩辛スパゲティー」というものである。わたしは是のメニューの写真を見てビックリしました。世の中にそんなミスマッチなゲテモノが在るものかと。「此処のシェフは東北出身の変人か」と思っているところ、友人の強い勧めもあり、「まあ、物は試し」ということで、食べ残すことも覚悟でわたしも其れを注文しました。やがてウエイターが塩辛スパゲティーなるものをテーブルに並べ置くと、予想外に何んとも言えないバターの豊潤な香りに食欲をそそるではないか。完全に火を通したイカの塩辛のバター・ソース合えである。バターの香り豊かにイカ塩辛の風味もはっきりと残しつつ其れでいて生臭さを感じさせない、塩加減も絶妙だ。 わたしは「イカの塩辛」がそんなに好きというわけでもないが、時々、体が其れを欲するかのように口にしたくなることがある。特に「きのうはちょっと飲み過ぎたかな。食欲がないな(二日酔いとは別に)」と感じる時などがそうである。わたしも年と共に酒も弱くなってきました。酒の飲みすぎは体に負担を掛けます。そんな時、イカの塩辛を大さじ一杯程食べると肝臓が元気を取り戻していくのが実感として分かります。人の体ってよくできていますね、必要な栄養の補給を欲求というシグナルで、修復・回復の必要を知らせてくれるのですから。 人に勧めるわけではないが、わたしの場合は自家製無添加の塩辛を買って来て、大き目の瓶に遷し、舌がヒリヒリする程に粗塩を加え冷蔵庫で保存します。たまにかき混ぜて、一年もすると蓋を開けた時などは仄かにアルコール臭が香ってきます、もうそうなると全く生臭さも無くなって食べやすい。 しかし、わたしの場合には「イカの塩辛」が薬効として認められたが、他の人や、その他の塩辛についてはあまり食さないのでよく解らない。ただ、日本酒の肴によく合うのは確かだ。また一般に塩辛(醤:ヒシオ)と言われるものにはイカの他にタコ・カツオ・アユ・エビ・貝類などの食材を用いたものもあり、また使うワタ(内蔵)も鯛・鯖・鮭・ナマコ・ウニなど卵巣含め色々あるようだ。特に日本では「酒盗」と呼ばれるカツオの塩辛は胃袋をきざんで漬けたもので古くから有り、水産食品として全国的に愛され、イワシの魚醤と同じく調味料としても用いられてきた。やはり長い歴史に於いて経験則から肝臓をいたわる食品として日本固有にフルバージョンに展開したのではなかろうか。塩辛については色々な書物や辞書をみても中国大陸発祥の食品として記されているものが大半で定説になっているが、わたしは真向から「異議有り」と反論するものであります。塩漬け熟成製法という意味では同じだが、中国で言うところの塩辛と日本の塩辛は全く別物である。 それでは、「塩辛」は中国発とするのは如何なる根拠かとなると、「人肉の塩蔵」の歴史に触れなければならない。中国は漢民族と特定する訳でもなく50から成る民族それぞれがカニバリズム(食人習俗)の食文化があったと考えます。其れは20世紀に入っての文化大革命まで全地域的に公然と人を殺し、其の人肉を喰らう文化が続き、今日でも道徳道義・教養の及ばない貧村では行われていると考える。時々、人肉ソーセージ・人肉饅頭・人肉餃子の事件や人肉料理店の摘発など香港自治区を含め全て中国人である。「一人っ子政策」の嬰児処理や死刑囚の遺体の払い下げや共産党の組織的な臓器売買など、疑われる事例が多い。 中国史上もっとも有名な食人の事例では後漢滅亡後の三国時代だろう。戦場に敵の捕虜を料理する為の大釜が運ばれたという。後に「宰殺務」という役職が設けられ、敵の捕虜を食用として飼育し、軍の兵料としていた。人肉は豚肉にも遠く及ばない低級な食材であったが、其の食文化は全国に広がり、やがて「まずい物を美味しく食べる」という食の革命が起こった。其れが今日で言うところの中国○○料理の礎と謂われるもである。また中国の医学書『李事珍(人の部)』にみるように漢方薬として、また長期保存食として発達した。一説に中国で本格的に塩辛(人肉塩漬け)が作られるようになったのは周代(前770)以降とも謂われる。 人肉保存には、人肉各部位を細長く又は短冊状に切り天日干しした物が「干尸(かんし)」と言い、生肉を塩麹で塩蔵した物を「塩尸(えんし)」または「醤(ヒシオ・ヒシビシオ・シシビシオ)」と言う。ちなみに『尸』は「屍(しかばね)の簡略字である。チャップリンの映画『黄金狂時代』だったろうか、山小屋で食料が無くなり革靴をゆでて食べる場面があったが、作り話と笑えない。実際、文化大革命のときに革製品を食べた者がいたそうだ。 中国春秋時代山東省に生まれた儒学者の孔子(前551~前479)は弟子が捕らえられ食用にされて了ったのを知り、其れを嘆いて自分みずから人肉食を断ったと謂われる。また、日本でも信仰されている鬼子母神であるが、此れは中国渡来の女神で、大乗仏教五時の教範である法華経の護法神として祀られた。是の女神は生前は夜叉として、人の子を捕らえて毎日人肉を食していたが、或る日、其の悪行を見かねた仏が戒める為に、夜叉の末っ子を隠して了った。そこで夜叉は悔い改め人の子を捕らえるのを止めたという。是れとよく似た話に愛知県の曹洞宗妙厳寺に鎮座(豊川稲荷)する茶枳尼天(ダキニテン)がある。是の女神はヒンドゥー教の女神カーラーに仕える侍女ダーキニーであったが、やはり人肉を食らう夜叉であった。悪行を悔い改めたため仏法の守護神として祀られた。 此処で、いつごろ日本に「塩辛」が伝わったかということだが、遣隋使(607~614)計3回大陸に遣わされたが、日本の官人たちが中国式塩辛を口にしていない訳がない。人肉とは知らずに食したのだろう。「美味い物なら製造法が知りたい」は当然である。帰国後、報告を受けた推古天皇は「そんな物を食ってはならぬ」と怒りまくっただろう。後の遣唐使(630~894)は唐末の戦乱のため、使節団の安全が保障できないとし菅原道真は派遣廃止に決断した。おそらく当時の食習慣として、肉を塩麹漬けにするという製造法は輸入していないはずだ。 奈良藤原京(694~710)跡から現物納品税(庸)の荷札がたくさん出土している、其の中に鮒醤(ふなびしお)という荷札が発見されが、其れは運搬上の腐敗対策の塩漬けのことで、今でいう「新巻鮭」と同様の製法の物と考えられる、中でも塩サバは古くからあり各地方に運ばれていた。その他、食品保存法では「酒粕漬け」がある。神前に捧げる神酒を巫女が醸し、その出来上がった酒を搾った後の残り粕で川魚(主にアユ)や野菜を漬けるというものだ。此の方法は奈良・京の都を中心に全国に普及し、今ではいろんな酒粕漬けがある。 文武天皇朝(在位697~707)の大宝令に醤(ひしお)を司る主醤という役所が見られる。更に延喜式律令細則(967施行)には醤(ひしお)の醸造例として「豆三石、麹用米一斗五升、もち米四升三合、酒・小麦ともに一斗五升、塩一石五斗から醤一石五斗を得る」と見られ、また平安中期の『宇津保物語』に「酢、醤(ひしお)、漬物皆同じ事したり」とある。此処で分かることは文武天皇以前に味噌・醤油などの発酵食品が既にあったことが明らかですね。材料を見れば中国の醤(塩辛)とは異なり全て穀物です。それでは「イカの塩辛」や「カツオの塩辛」などの前身なるものはいつ頃に作られたのだろうか。年代は分からないが、東南アジアの「イワシの魚醤」の製造方法が元になっていると考えることも出来る。タイのナンプラーが有名だ。其の魚醤の熟成中のモロミをたまたま食したところ酒の肴に良かったのだろう。確かに「カツオの塩辛」は「イワシの魚醤」のモロミそのものだ。そもそも日本には動物の内蔵を食べるという文化はないが、高知県の酒盗(カツオの内蔵漬け)や沖縄県のワタガラス(腸嗄らす)は魚醤のモロミをヒントに発展したと見る方が自然ではなかろうか。イカの塩辛などは歴史が浅い。 作意的展開で書く訳ではないが、外国人移民の話であるが、安倍総理は当初の公約を悉く破り、守銭奴の奴と成り下がり、いまや秩序の神であらせられる天照大御神さまのお顔に泥を塗る事を先頭に立って行っている。わたしは一国民として怒り心頭だ。この我が国に中国および朝鮮半島の血を決して入れてはいけない。更に言うならば、日本国の首長であられる天皇陛下が「国の象徴」と言うなら、陛下には事あるごとに「国体の理念」について御意見をお述べになられる絶対権限があるはずだ、将に今は国難だ。そして国会議員は国民の下に位置する下僕であることを自覚し、横暴を許してはいけない。それが民主主義というものだ。だいたい自民党部会のだらしなさは一体何なんだ、「飯を食いながら重要法案の議論するな!!」見っともない。日本が中国塩辛にされてもよいのか。 急いで書いたので記述に誤りがありましたらご容赦ください。 平成30年11月10日(本田出版社主) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 【やる気のない社会】 こないだ中古屋のホームページを見ていたら気になるオーディオアンプがありました。40年前の某有名メーカーの高級アンプであったが片チャンネルから音が出ないジャンク品でした。何んとか修理できぬものかと一応、購入したのだが、各部の作りといい、デザインといい、風格すら感じる逸品でした。ただ腰が抜けるほど重い。早速にネジを外して中の基盤を見るとほこりだらけ、おまけに煙草の臭いがほのかに漂う。前の持ち主はおそらくわたしと同じようにヘビースモーカーだったようだ。基盤を取り出して見ると電解コンデンサの膨らみと半田付けの浮き、さらにボリュームのガリがあった。悪い箇所はすぐに分かったので直ぐに部品を取り寄せて載せ替えました。まあ5千円ほどかかりましたが、見事に復活しました。朗々たるアナログ5~120kHzの音が3wayスピーカーからベートーヴェンの「田園」と八代亜紀さんの「愛ひとすじ」が鳴り響く。すばらしい音だ。40年前のメーカーの技術者はじめ従業員方々がプライドと自信を以って世に送り出した高級アンプである。 近年、大型店のオーディオコーナーに行って見ても安っぽいコンポが並んでいるだけで高級品は置かれなくなりました。確かにnetでは高級品も揃えておりますが、そのような高額品はもう店頭で買われる人がいないのでしょうね。しかし今の人はnetでもって、実物を見て触って確認もせずに買ってしまうようになったが不安はないのだろうか。手頃な価格なら其れなりの性能で良しとして、やはりカード決済という意識の変化もあるのだろうか。 わたしが若い頃は、心で歌う歌手も多かったし、平行して音響機器メーカーも各社次々に新製品を発表して繁栄していた。また愛しい彼女へのプレゼントといったらLPレコードだった。最新のアンプのカタログなんか見てしまうものなら仕事中もアンプが脳裏をかすめるのだ。そしてお金が貯まるまで一生懸命に働き、店に何度も足を運び、やっとの思いで念願の高級アンプを現金で買った。ワクワクドキドキで物を買っていたが、当時のメーカーは消費者庶民の期待を裏切らなかったような気がします。 わたしだけではなく昔は皆こうして物を買っていた時代である。給料も現金なら物の売り買いも現金、お金の無い時はじっと我慢、消費の醍醐味と同時にお金に対する有難味すら肌を通して実感しますね。むかし3億円強奪事件というものがありました。大手会社の従業員の給料を運ぶ輸送車を白バイで現れた偽警察官に奪われるという大きな事件であった。犯人はいまだに逮捕されていない。この事件の後、徐々に会社従業員の給与は電子化されていくわけだが、此れによって日本の社会規範が大きく変わって犯罪も巧妙複雑になった。労働代価である現金が数値化されポイント評価にされてしまった。以前の国内メーカーは社員に対して利益還元を第一に考え、より安全で高品質なものを社会に発表し全国民と享受する誇りがあった。戦後成長期には会社の社長や工場長が朝早くに、社員が出社する前に工場全体を見廻り、ゴミ置き場を必ず確認したものである。「ダラリを無くせ」が徹底されていた。「ダ」は無駄のダ、「ラ」は一様でない意のムラのラ、「リ」は無理のリである。また「5W1H」という企業用語もあった。最近は全く言われなくなったし、マスメディアでも死語になってしまった。是れは「When・Who・Wher・Why・What・How」の略で安全と作業の確認である。戦国の武田信玄や上杉謙信は行動が速かったのは情報分析と連絡を密にしていたからにほかならないだろう。将に国主と忍者は「5W1H」である。 今や全てが形骸化した世の中となってしまった。本田出版は活動家ではないので社会批判など言うべきではないのだが、壊れていく我が国をただ黙って観ているのは忍びないものである。特に外国人労働者の受け入れなど決してやってはいけない政策であるにもかかわらず、是れによって国内の一律低賃金化を目論むやからが多い。これでは国民がどんどん貧乏になってしまいますね。戦後の成長期のように努力して報われる世の中を目指さなければ働く尊厳も自己啓発も儘ならない。誰もが言うように外国移民受け入れは必ず文化を破壊するものである。外国人に配慮して日本の先人の英知に培われた習俗・習慣までをも「差別になるから」といって替えることになっていくだろう。外国人労働者の問題は製造分野でも悪い影響を及ぼすことは必至である。日本の物づくりというのは神世の時代からのDNAそのもである。鍛冶屋・金属加工業なら金山毘古神・金山毘賣神を祀る氏神の血脈であろうし、また大工なら志那津比古神を祀るところの氏神の血脈であったりもするのである。日本人の繊細さ・器用さ・真面目さ・思考能力は天分受け継ぐところが大きい。最近は利権利得にしがみつき人の不幸を何とも思わない人間も目立って多くなってきたが、困ったことにこういう者たちは恥を知らず、反省する力もないのである。特に近年腹が立つのはくだらない規制が多いことだ。税金を納めているにも関わらず、家庭ゴミを出すのに更にゴミ袋を買わせて其の利益を業者と利得者が懐に入れるなど、こんな野蛮なことは止めるべきだ。煙草だってどんどん値上がりしているが懲罰そのものである。わたしも家族も親戚も皆煙草を吸っているが癌になった人はいない。むかし友人が「芸術・文学は煙草の煙から生まれる」などと洒落たことを言っていたが。煙草は緊張と体力を必要とする職業には欠かせないものである。いい例が戦争である。戦争には煙草と酒が絶対不可欠なのである。有事の際には自衛隊員に精神安定剤でも配るのだろうか。それとも自衛隊員の去勢化でも企てているのか。だいたい副流煙云々などと言ったらまず田舎には住めまい。ほうぼうの田畑や空き地で木草を焼く野火の煙が漂って来るし、まだ囲炉裏のある農家では朝から晩まで家の中は煙だらけ。たいへん美味い秋田名物の「炙りがっこう」などは干し大根を囲炉裏の上に吊るして作る大根の燻製である。また公園で「酒飲むな」なんてものもあるが節度の問題だ。しかし、わたしは煙草税・酒税を相当額納めている一人である。 政府の推し進める「男女共同参画」などという馬鹿な施策により、本来の男女の性の差が持つ条件の受容と尊重の精神を無視し、女性には過酷な生き方を強いるのか。女性に身体的ハンディがあるのに男と同じ土俵で戦えはないだろう。神は男女それぞれに役割に合った肉体を与えて下さっているのである。女性は姫様で在れとは言わないが、精神衛生的にも厳しい環境での就労は避けるべきだ。 また年々結婚しない女性が増えている。というよりも、男性の賃金が低すぎて家庭を築けないのが現状だ。とは言え女性は結婚し、子をもうけ、家庭の箍(たが)として、子供に躾と慈しみ・他愛の心を授けるのが女性母親としての本領である。 男女共働きでなければ食べてゆけないなんて事は特別な事情を除いては、つい20年ほど前まではなかったことだ。昔は稼ぎ手である一家の主人の給料日の夜などは何処の家でも家族一同揃ってささやかな酒宴が行われ、そこには必ずと言ってもよいくらい主婦の気配りでマグロの刺身が一舟飯台を飾ったものである。こういったささやかな家庭が各町々を為し、国の形をつくってきた。 一下僕に過ぎない国会議員が浅はかな考えで、男女共同参画や、特に移民という国体を左右させる権限など、天皇陛下も神々も与えていないはずだ。ましてや国防や国内インフラに力を注がなくて国土強靭化などありえない。憲法9条の問題は深刻だが、実際、一大有事の時はこんなものすっ飛んで了うことぐらいは国民も十二分に理解しているはずだ。自然権として防衛には先手必勝の敵地攻撃も含まれるからだ。 今年正月だったろうかチャンネル桜の水島社長と国際政治学者の西尾幹二氏との対談があったが、確か西尾氏が「誰が総理になっても同じだ」という発言があったように覚えているが、わたしも西尾氏と同じ考えである。西尾氏はきっと「往きつくところまで行けば、必ず此の国は目覚める」と、おっしゃりたかったのでしょう。二世・三世議員でなければ総理になれないという風潮と役人の既得権益がある以上、此の国の柁取りは難しい。今の安倍総理が暗殺されることをも覚悟で強硬な事が出来るなら、此の国は一気に変わるだろうが、お坊ちゃまではそんな度胸もあるまい。本田出版いい加減なこと言うなと言われるかもしれませんが、歴史をみれば戦国時代の武将たちは皆このような気骨と実行力があった。今の世の中がいくら複雑になろうとも、手段は違えど人の生きざまは鎌倉時代や戦国時代とたいして変わらないものである。人に上品・中品・下品(暮らしぶりの事ではない)とあるように、人は其の世界でしか生きられないものである。有象無象下品の類がたまたま今の国会議員や役人・経済界・マスメディアに多いだけである。西尾幹二氏は其のことを言いたかったのだろう。幸いにも桜井誠氏が率いる新しい政党も出来て今後大いに期待したいところだ。彼は若いし無限の可能性もある。言っていることは全て此の国に必要な正論である。口は悪いがバイタリティーと有言実行の新星として温かく迎えたい。わたしはもう老人の部類で社会に対して何も貢献出来ないが、今やれる事を自分なりにこなすだけだ。 今、此の国のを観ていると、まるでやる気のない社員を抱えた会社のようであるが再び不死鳥のように羽ばたく時も来よう。消費税10%についても言いたかったが今日はこの辺でやめよう。 平成30年10月26日(本田出版社主) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 【新刊のお知らせ】 既刊である『古事記』の上巻、中巻を編纂編集した「一之巻」「二之巻」に合わせて、この度、読者のご希望に副い下巻を編纂した「三之巻」を発刊することになりました。よって、『古事記』全三巻の編纂を終え、既刊の二巻組と差し替えとし、「一之巻・二之巻・三之巻」で三冊組販売とします。 価格「11、000円(税・送料込み)」 差し替え発刊日:2018年10月19日 今後とも宜しくお願い申し上げます。 本田出版社主(本田靖夫)2018,10,08 ------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------ 【霊について、「光帯」・「幽霊」第二段】 今回も前の段に引き続き「霊」のことについて書きますが、前の段では、かなり高貴な霊の話でしたが、此の段では皆さんが一番興味のある霊、いわゆる幽霊とでも言いましょうか、そんな話をわたしの体験などを通して書いてみようと思います。先ずは「光帯」の話から入ります。 テレビなどの怪談もので流している心霊写真は、ハッキリ言ってどこまで本当か分かりません、其れらはわたし自身経験していない写真ばかりです。しかし、幽霊は本当いることは、人々の体験談とそれぞれの類似一致から察して分かります。わたしは今まで膨大な写真を撮ってきてきましたが、人影やまた其の一部を写したものは1枚もありません。只、むかしの中判フイルムカメラ6×9・6×7・6×6などの時代では取り扱いミスによって多重露出(重ね撮り)による失敗も度々ありました。また意図的に多重露出を行うことがあります。夏の季節になりますと全国どこでも花火大会が行われますね、あのポスターの殆どの花火写真は合成または多重露出の手法が使われております。わたしもバルブ撮影(開放撮影)の時は黒塗りウチワでレンズ前面で光を遮ったり開けたりして、シャッターのように使い、多重露出させます。但し是が出来るのは暗闇の場合だけです。また、パソコンでの画像合成や一部消去などは頻繁に行っている通常の作業です。 しかし、どうしても説明のつかない現象の写真があります。其れは「光帯」と呼ばれるもので、フィルム撮影特有の現象で、印画現像されて気づくものですが、わたしも写真におさめております。どういうものかと言いますと、よく夜景撮影の時、カメラ三脚を立てて低速またはバルブで撮りますが、其の時、通りがかった車輌のテールランプなどが帯の様に尾を引きますね、あれと同じ事が自然光以外の光源の無い空中で起こります、もちろん肉眼では見ることは出来ませんが。此れはテレビの神霊番組でも見ますが。わたしが撮影したのは長野県の八ヶ岳山中で、ビバークテントの前で低速シャッターをきりました。カメラは35ミリ1眼レフ(カラーフイル)。現像プリントされたのを見て驚きました。其の光の帯は白色で、まるで虫か何かが高速で飛び回っているかのように、目の前を光を放って、太い二筋の自由曲線を描いている。是の現象についてアメリカの心霊研究では電磁波説が多いですが、八ヶ岳山中で電磁波の云々はないように思えます。また国内の例では寺院や墓地での撮影のものが多く、是も電磁波とは考え難いことである。 しかし国内事例で共通している事はみなフイルム撮影である事(今のところ)、デジタルの撮像素子CCDには「光帯」は感応しないようである。それと併せて、むかしのビデオカメラではテープに怪しい音声が飛び込んでいるという話はカメラ仲間からも聞いていました。幽霊を周波数や波長で語る人も多いが何とも言えないところだ。 然て、また此処からはわたしの実際の恐怖体験談になります。 皆さんはこんな経験はないだろうか。学校や会社で仲の良い友が、何かに熱中しているあなたを驚かそうと、そーと音を立てずに、あなたの背後から近づきビックリさせようとするが、あなたは肩を触れられる直前に「気」を感じ取って後ろを振り向く、やはり後ろに友人がいた。是れ弟六感とも七感ともいわれる人間の持つ超能力なのでしょうね。もし、誰も居ない部屋だったら、振り向いて後ろに誰もいなかったら「確かに誰かいたような気がしたのに」と身ぶるいすることでしょう。 わたしが23・4歳くらいの頃だったか、家の事業にも参加せず、また就職もせずに好き勝手に為ていた時期のことですが、東京都内の或る〇〇劇場で大道具のアルバイトをしていた事がありました。仕事に就いて二週間ほどしての事だろうか、ある時、「かさね」の演目があるというので前日朝から親方の指図でノコギリやゲンノウを持ってたいへん忙しかった。どうせ日本舞踊だろうと思っていて、当日の午前中早くには幕も張り終えて準備が完了しました。テスト照明が入ると何かいやな雰囲気が漂う。此の時「かさね」とは「怪談かさねがふち」の事だと知りました。わたしは此の怪談話の内容は知りませんでしたが、当日、午後1時には開幕し、演目が始まって、皆は舞台横の待機所に移り、わたしともう一人が舞台の幕裏の真っ暗なところで、役者さんたちの声が聞こえる中、互いに離れて次の場面切り替えの準備を音を立てずに手探りで行っていました。しているうちに場面の盛り上がりだろうか役者の声と笛の効果音が怪しく流れて、わたしは真っ暗な中でいい気分ではなかった。そんな時、何か妙な気持ちに陥ると同時に人の気配が感じられた。小さな懐中電灯一つでは手許しか照らせずであったが、確かに自分の数十センチのところに見えないが誰かが居る、音無き吐息が感じられるのである。そして決定的だったのが右の上腕あたりに髪の毛の様なものがフワリと触れるのを覚えたのである。それは長い髪の女性のようである。「このままではまずい」と、わたしは背筋が凍るおもいで待機所に逃げ戻りました。結局、不馴れで作業が分からないという理由をつけて助けを呼んだ訳ですが。舞台の裏方というのは主催者からのご祝儀や寿司・酒の差入があったりして結構な社会勉強になりましたが、闇の陰の世界も垣間見た思いでした。 また更に、死霊が霊異現象となって特定の人の前に現れるわけですが、知り合いの体験では、中古住宅を購入し、其の引っ越し先の家で幽霊を見たという。三歳くらいの女の子が日中現れ、彼の手を握り、にっこり笑っては姿を消したというのだ。是の時、確かに女の子の手に温もりがあったと語る。また其の少女が消えなければ、普通の生きている少女と同じだったとも感想を漏らす。 何の因縁か、遭遇してしまうのが幽霊で、又わざわざ悪霊と称して呼び出し退治しようとした時代もありました。紫式部の時代である。 さかのぼること平安中期、紫式部は日記(寛弘五年:1008)にその事を克明に記録しています。其の当時、一条天皇の御子を身ごもった中宮藤原彰子も親元で出産する習わしにしたがい宮中を一旦離れている。藤原家では祈?、厄神・悪霊掃いに多くの金財と労力を費やしていた。摂関家藤原道長邸の場合、有名な寺院の別当・阿闍梨・その他僧侶、修験僧をはじめ、陰陽寮からも呪師まで邸に集め、その数、200人を超えていたと思われる。ただ神社関係者は一人も加わっていない。道長は邸の女官を数人選び出し、悪霊の霊媒として几帳や衝立で各仕切られた部屋に据えさせて、各部屋担当の僧侶や呪師に依って、代わる代わる悪霊退治が行われた。当時の考え方として、身ごもった中宮に無事出産させる為には邸の内外をとりまく悪霊を、一旦、霊媒(女官)の体に集め、其れを経文や呪文の力で調伏し何処か遠くの世界に追いやるというものであった。しかし霊媒に選ばれた女官たちはうめき声と共に狂乱状態に陥った。科学の発達した今の時代だから言えるのですが、実際のところは悪霊ではなく女官に宿りまつわる先祖霊(亡くなった父母など縁者の霊)を呼び出し追放する修法であった。往時の貴族社会に蔓延していたゆきすぎた迷信が寺院を巻き込んでいきました。蔭の神道の出番は無事御子出産の後の御礼参りとはまた興味深いことである。 わたしも会社勤めだった頃から今日迄、多くの人の実話を聞かされてきましたが、やはり実話というものははなし家の講談よりも奇異で陰に幽圧なものです。わたしは幽霊というものをどのように解釈し定義づけるかいつも悩みます。自分の体験や人から聞いた話などから、頭の中ではぼんやりとですが大体のデッサンは描けているが理論で彩色するとなると容易なことではありません。なにしろわたし自身幽霊の姿を実際に目視した事がないのですから。 人には「気」というものがあります。「やる気」「元気」「活気」の気です。よく「後光が差す」と言いますが、表現として仏像の後背の光輝を模した放射状のものですね。昔の人は活力ある状態を「光輝く」と捉えた訳ですが、ルネサンスのラファエロやボッティチェリのような宗教画家の描く聖人の光輪と後光はまったく意味合いの違うもので、もっと根源的な幽玄なる「動機の知」なるものが「気」であるとわたしは考えます。神道には「ケガレ」という言葉がありますが、語源は「木枯れ」で「木」は「気」に通じ、其れが転じて「穢れ」になったと思われます。人は憂鬱になったり、遣る瀬無い気持ちに落ち込んだりしますと、どうしてもうつむき加減に歩いて了うものです。その状態を「気が涸れる」と神道では教えております。そこで神道では仕切り直しに、神の御名に於いて「祓(はらえ)」の対処方法がおこなわれる訳です(此の話はまた別の機会にやりましょう)。 其の「気」でありますが、「女性特有の気」「男性特有の気」があると理解して、何故、女性の幽霊が多いのかという疑問を解く糸口が見えてきそうで。「女は業(ごう)が深い」なんて言い方もありますが、若くして亡くなられた場合などは、未婚・既婚の関係なく母性としての「強い気」が埋没することなく冥府と現世の間に存在し、何かのきっかけを以て現世の扉を叩くのでしょう。生前の故人を知り偲ぶ人がいる以上、回忌供養は重ねられ、完全に其の故人を知る者がいなくなった時、はじめて故人は先祖連なる路線上に埋没していくのではなかろうか。其の事をいちばん考慮して分かっているのが神道で、ちなみに神道では初回忌から100回忌以上とし、上限がありません。もちろん神社さまと家柄とのご相談の上ですが。ですから故人を知らない代になっても追善供養が可能ということですね。 また、我々の遠い先祖には高徳を以て霊能を発動し、子孫末裔まで君臨し、善行に導く存在があります。そのご偉霊を「神」と稱えます。 此の幽霊の話の段は此処で区切りとしまして、今のところ第三段は予定しておりませんが折あらば触れてゆきます。 つらつらと徒然にて。(本田出版:社主/平成30年8月9日) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 【霊について、第一段】 今回はあまり堅苦しくない話にしようと思います。夏ですから、「霊」のことはどうでしょうか。 net動画で「心霊」と検索するとこの類のものがいくらでも出てきますね。ただ過去にテレビで放映された、それも検証不可能な演出再現のものばかりで、本当に研究の対象となるような資料的価値のあるものは殆どないように思えますね(失礼な言い方ですが)。 今の時代、パソコンと動画編集ソフトや画像レタッチソフトがあればテレビ局で流しているような心霊ものは個人レベルで創れてしまいます。現に素人のわたしも趣味でmusic movieを作って楽しんでいます。昨年作ったものに、八代亜紀さんの若い頃の録画をたくさん集めて編集加工して1時間30分の音楽動画を作りましたが其れが結構うけました。 しかし、心霊動画・心霊写真がパソコンで疑似的に再現出来るからといって放映されているものが全て嘘とは言えないものもあることは確かでしょう。此処からはわたしの実際の体験を通して書きますが。わたしは小説家や評論家ではありませんし、ましてやカルト教団の教祖でもありませんので、是のわたしが嘘を書いて了ったなら、本田出版の書籍執筆の姿勢まで疑われて了いますので、事実のみ書くと為て、あとは皆さんの判断にお任せ致します。 実際わたしもカメラ歴が長いため、撮影された写真の中には説明のつかないものが写り込んでいることが在ります。特に多いのがオーブ(Orb)と呼ばれる玉響(たまゆら)現象です。殆どの場合はフラッシュを焚いた時のチリ・ホコリ・水滴・虫などの反射に因るもので問題なしです。また単に是の現象をオーブと定義するなら話は進みません。アメリカでは物理的現象としてではなく超自然的なものとしてオーブを研究対象とみているようです。 10年くらい前のことですが、新しいデジタルカメラを購入して、テスト撮影に出かけた時のことです、たまたま通りがかった〇〇古墳遺跡(神奈川県西部にある)に立ち寄ったのですが、その遺跡は古墳時代のもので大小併せて30数基の大規模古墳群です。今は遺跡の上に工場が立ったり、道路が走ったりと、往時の全体の様子は分かりませんが、現在は古墳公園として管理されております。其の中でも、復元修復された大きな円墳が1基ありました。たいへん綺麗に修復されていて半球状の盛土のうえに規則正しく並べられた石は当時のままで本当に見事です。当時、その地域を治めていた大豪族の墓だったのでしょう。わたしは中に入ったのですが石櫃はありませんでしたが、何かの資料にと思って5枚ほど内部写真を撮って、出がけにまた入口部を2枚撮影しています。なんだかんだでその日は50枚ほど撮って、家に戻ったのは夕方暗くなった頃です。また何気なく家の廊下から玄関に向けて撮りました。食事も済ませ酒を飲みながら、写真の写り具合を確かめる為、パソコンで写真データを開いたところ、「まさか!?」と思いました。円墳の中で撮った写真のうちの2枚と、其の入口の1枚に三つの球体がハッキリと写り込んでいる。「これは普通ではない」と直ぐに気づきました。其の球体の大きさは径3センチ程で、50センチ円内に収まった具合で浮遊しています。それぞれ赤色・青色・緑色の透明なビー玉のようである。写真からして浮遊した移動体であることが分かる。更に写真データを見て行くと、帰宅時に廊下から玄関に向けて撮った写真にも円墳の時と同じ三色の同じ球体が写り込んでいました。どうやらわたしの後を付いて家の中まで来られたようです。 此れで判ることは、意思・心を持ったエネルギーであることが分かりますね。また三色の意味するところは、身分ではなく家族構成か、男女の性差か、葬られた時期の前後の違いなのか。想像がつくことは其の円墳に葬られた人数は三人。年代は資料館によると7世紀頃(飛鳥時代)で副葬品は鉄剣、ヨロイ、鉄鏃、勾玉など装飾品複数。 只、何のご縁で我家までお越しになられたのか今だに分かりませんが、うちのご祭神や先祖と関係があるのでしょうか。別段、わたしや周囲に異変が起こったということでもないのですが、そんな偉い方々の御魂がむさ苦しい我家へお越しなられるとは只々光栄余りある思いであります。恐らく皆さんは霊体に色があっただなんて知らない事だったでしょう。わたしも知りませんでした。しかし現実です。只、参考までに申しますと、わたしが子供のころ聞かされた、むかし父が見たと語る大きな人魂は青色だったという。また祖母が見たという人魂は赤色だったそうだ。しかし今回の記事で謂えることはテレビで放映される心霊番組の「オーブ」とは明らかに区別されるものだと思います。 更に、更に、場所が特定されますので県名は書きませんが、或る神宮の神幸祭に行った時の事ですが、夕方、大鳥居の方に向かってシャッターをきった時の写真の中の2枚に、鳥居の上方に巨大な半透明な球体が浮かんでいました。其の大きさは径1メートル以上だと思われます。立ち位置や角度を変えて撮影していますので光学的ゴースト現象ではありません。また他の人のカメラにも同じように写っているとも考え難いことです。此れも謂えることは、前出の事例とはまた別の次元の世界の事のようだ。人知を超えるとはこういうことですね。わたしも神道歩む信仰者ですから其れなりの思惟で以て理解できるものがありますが、皆さんはどう思われますか。尚、わたしどものこういったデータは一切公開いたしませんし、そんな不敬なことはできません。信じる信じないは皆さんの自由です。 第一段 終 次回は弟二段を書きます。 (本田出版:社主/平成30年7月29日) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 【人の死・神様をお祀りしましょう】 『日本国現報善悪霊異記』という仏教説話を読んでいたら、急に「人の死と信仰」について書いてみたくなった。是の記事は仏教を否定しています。怪しからんと思われる方はお読みにならなくても結構です。 わたしも高齢になり、今までを振り返れば、人生、山あり谷あり嬉しい事も辛い事も随分と経験してきました。幸いにも今日まで大病もせず、大した不意の事故にも遭わず為て、本当に健康こそが資本だと思います。しかし人はいつかは老いさらばえて死ぬものです。人というものは物に例えればまるでローソクの様なもの、使えば使っただけ早く減っていきます。わたしも一見して健康でも体力は低下し、視力は衰え,今は老眼で乱視、径10㎝のルーペが手放せないでいる。生前、母(母方の血筋に寺院が多い)が口にしていた「寿命無量と雖も必ず終わり有り、、、人に死の有る如く万有に常住のものは無し、流転、苦しみに限り無く止む事無し」の仏説が思いだされる。そんな母も父も今は墓の下に眠り、生前の数々の親不孝が走馬燈のように脳裏を廻る。 戦後、仕事の多様化と核家族化が増々進み肉親の死を自宅で看取るということが本当になくなりました。わたしは仕事の関係上、両親とも、其の死に際に病院へ駆けつけられなくて、代わりに長男夫婦が最期を看取ってくれたが、かなり高齢だった上、また静かに息をひきとったと聞いて、「やはり信心のご加護があったな」と、諦めもついたものです。 身内とは関係ありませんが病院で知り合いの死に際に二度立ち会った事がありました。二人とも六十歳前の男性で、癌の末期状態でとうとう絶命されました。いずれも亡くなる1時間前までは家族と多少の会話が出来ていたが、其の後、様態は急変した。医者というものは凄いもので死期を見抜いて数時間前には家族に連絡して呼び寄せているのである。わたしも見ていてたいへん辛かった。患者本人の脳は正常でもいきなり心肺停止に陥るのですから本人の苦痛ときたら計り知れないものがある。広がる嗚咽と家族の嘆きの叫びは天を突き破るほどに病棟の廊下に響きわたる。 二人の方の臨終に立ち会ったわけだが、其の中でもたいへん印象深く今でも脳裏に焼き付いた方がいる。敬けんな仏教徒だったが皮膚癌はすでに全身に転移していて、すぐに入院することになって、今までの信仰に対して裏切られたと思ったのだろうか、怒りのあまり妻の前で仏像をナタで割り裂いたという。入院して5か月、担当医から引導を渡された時、病院に葬儀社を呼んで家族と共に後の事を決めたという。後で知った事だが、本人の希望で葬儀は〇〇宗(仏教宗派)にして欲しいと希望を述べたというのである。そして一か月も経たないうちに彼は亡くなった。其の時の死にざまといったら凄まじく見るに忍びない思いであった。彼の体は生きようとしているのに、見えない力が強制的に死に至らしめようとでもしているかのようであった。とても寿命とは思えない。本人の息絶え絶えの中、兄弟たちは結末の不安に怯えていた。只、両親はまだ来ておらず、到着に10分ほどかかるとのことだった。医師は「ほんの数分だけもたせることが出来る」として本人に注射を打ち、電気ショックをあたえた。しかし間に合わなかった。もし其の一部始終を親が見たらどんなにか遣る瀬無く残念がるだろう。 わたしの率直な感想として「こんなふうに苦しみながら死にたくない」というところでしょうか。わたしの記事は「亡くなった方への冒涜」と思われるかも知れませんが、現に生きている人の為に、知らないよりは知ったほうが良いと思うのです。確かに人の死様や呼吸絶たれる苦しみはcase by case ということもありますが。 然て、此処からが本題であります。此のブログ記事を読まれている方々の中には信仰をなされておられる人も沢山おられると思います。此のサイトは「神道・日本国学」ですから恐らく神道を歩まれておられるか、又は興味のお有りの事と思います。 何故、人は信仰を持つのでしょうか。わたしの場合は家の信仰が仏教でありながら神道でもあります。武家というものはそういう矛盾の中で今日に至っております。わたしが二十歳の時に父親から天照大御神と聖徳太子の掛け軸を二巻を譲り受けましたが、本当に神道に目覚めたのは四十歳半ばになってからです。其の間、古典や仏教やキリスト教の本も数多く読み学びましたし、国内の遺跡調査にも参加し、また会社勤めも経験してきました。しかし、家の事業にも加わらず、好き勝手に為て、そして、やる事、為す事、すべて裏目に出てうまくゆかず、そのうち家族のものから叱責を受けました。そんなこれやで親元を離れて20年、或る時、押入れに眠っていた例の二巻を見つけ、天照大御神さまの掛け軸を広げた時、得も言われぬ幸福感に充ち溢れました。其の事がきっかけで氏神さまと天照大御神さまをお祭り申し上げ奉ったのです。其れからが不思議体験の連続で今日に至っております。大学の教授は「神仏はいると思えばいる、いないと思えばいない」などと訳の分からぬ事を言っているが、わたしは託宣の霊示体験を通して、数多くの古典に見る事例と符合一致を知り、また体の感覚で神の存在を覚知していった。是がわたしの決して揺るがない信仰を築いているのである。 此処では神道を中心に話を進めますが、わたしはよく人に「御利益信心はやめよう」と言っております。其れはべつに神社仏閣の加持祈?・施餓鬼法要などの宗教的行為や儀礼を否定するものではありません。むしろ肯定するものでそれらの修法等の霊験は歴史その他、自分の経験からも為て効験明らかであると断言できる。故に「願い事」も確固たる信仰の基盤があっての話だと思います。何事も、自分自ら精一杯努力し、其れでも為し得ぬ事なら神仏に委ねる事もたいへん結構なことではないでしょうか。今の若い人は努力や経験を積む事を軽くみているように思えてならない。其の癖、困った時には神頼み、神と雖も偉大なご先祖さまである、其のご先祖さまに願い事とは、恥を知らぬ者のすること。 昔から「人に神宿る」と言います。前のブログでわたしは「神(氏神:祖先神)は阿弥陀くじを辿る様に時代を下る」と言いましたが、確かに神は人を選ぶのです。しかし其れは信心という「呼び水」があって選ばれる道がつくのです。「磨かぬダイヤは宝石に非ず」の例えですね。 此処で分かりやすい例で言いましょう。「おみくじ」のことですが、わたしも各地の神社さまへお寄りしてはおみくじを頂くことが有ります。全て近未来を言い当てて下さいます。是は我家のご祭神がわたしに代わって「今のおまえには惟れしかない」とおみくじを選んで下さっているからです。勿論その神社さまのご祭神との霊性も関係あることでしょう。ふだん信心をしていないものが神社へ行っておみくじを頂いたところで当たる道理がありません。神さまにしてみれば「おまえなんか知らない、どれでも好きなの持って行け」となって了います。 信仰によって人生が好転したという例は数えきれぬほどあります。共通している事は皆たいへんな努力家たちですね。と、言うよりも努力出来る自分に変わるということなのでしょうか。わたしも其の様な人間に成るべく心掛けておりますが。 即物拝金主義の此の世の中ですが、はっきり言って、神さまは「お金に縁無し」です。いくら期待して御利益信心しても無駄です。しかし、真実(まこと)の信心には、神さまは健康と、人と人とのご縁を結んで下さいます。自分と社会との関わり方が円滑になるとでも言いましょうか。結局、経済効果を生み金財に繋がっていきます。こんな事はわたしが言うまでもなく、戦前までの人たちは皆分かっていたことではないでしょうか。只、御利益信心でも効験が認められている例外があります。其れは一部の渡来の神の信仰で、敬神深厚な信心によって欲望のままに願いが成就したという例はいくらでもありますが、はたして無償で済むものでしょうか。渡来の神と雖も心を持った霊体であることを識らなければならない。 また神の存在で最も重要なことは、人の最期を看取り、誘って下さるのが神だからです。一度、神が宿った肉体は死を迎えるまで共有されます。憶測ですが、人の苦痛は神にとっても悲痛です、其処で安全装置的なものが働くのだろう。多くの神道家(神職その他)が人生を閉じられる時、静かに旅立たれるというのは此のような安全装置のような事を神が図らって下さるからだと思います。そして本人の魂は冥府さまよう事なく、神・先祖が連なる同じ路線上に案内されるものと信じます。 此処で皆さんは「仏教はどうなの?」と言う疑問も湧くでしょう。昔、弘法大師空海が、亡くなった母の為に施餓鬼法要を行った、そしたら夢で母の苦痛が一時癒されたのを知ったという。是と同じ話はたいへん多い。人は現世の苦を背負ってあの世へ旅立つので、其の苦の訴えが何らかのかたちで示象として現世の人に反映されていまうのである。だから施餓鬼供養が必要なのである。実は是の修法は僧侶に依らなくても神道でも行える。むしろ神道の方が死者に対して思い遣りのある温かい効果的な方法だと思う。弘法大師空海が「人の霊」という問題を扱って、仏教に限界を感じ、神仏習合の両部神道を立ち上げた、其れに続いて伝教大師最澄も山王神道を開いたのである。もともと仏教の成り立ちからして人の死や霊を扱う要素がなかったが、原始神道は精霊や人の霊を根本に置いている。此れらについては別の機会に詳しく述べたいと思います。 然て、仏徒が本当に死後に西方浄土へ逝けるかは疑問である。仏教では、人は生前の善行の徳積に因って、死ぬと地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩・仏の十界の何れかに属すると言う。是は人の生前の行いや姿そのものであり、そのまま霊界の十界の何れかに住する事になる。十界の分類名称は方便としても何らかの住み分けがあるか、又は格差が生じているだろうことは今までの歴史的考察事例からも察するところだ。謂うなれば地獄も在り得るということになる。此の現世とあの世は、自分の姿を鏡に写し出す事のように表裏一体のもので、神道では顕世(うつしよ:現世)という。また神道では、この世と全く同じ世界があの世にも作られていて、生前の悪行・醜態・苦痛はあの世でも再現されるとしている。更に神道では一つの大きな霊性の神界が別に構成されているという。日本の神々は反発し合わないという事実からも此れは解る。我家でもそうであるが、神社さまでも複数の神をご祭神として祭っている。 我が日本では神(神道の神)の声を聞いたという人もいるし、稀だが神を見たという人もいる。しかし仏教の場合は一例たりとも無い。只、古典などでは仏像の姿で夢に現れたという話は多く見られる。 其れも当然なことだ。宇宙の実相を仏格化した大日如来や阿弥陀如来などは空想世界であることは理解できる。また一方の仏界の主宰者である釈迦や十大弟子が君臨し構成する世界も無かろう。原始仏教では殆ど戒律と呼べるものは無かったが、少なくとも釈迦や十大弟子と言われる人たちに子は無かったようである。また出家前に子があったかどうかは不明であるが、ネパールやインドに其の様な話は無い。ましてや此の日本では其のような子孫など皆無だろう。何が言いたいかといえば、「血脈系譜」という路線が敷かれていないということである。また釈迦はあの世に仏界(浄土)というものを用意していないのである。要するに現世の人の魂をあの世に導く手立てが無いということである。是を言うとわたしは大変な非難を浴びるのであるが。僧侶がよく口にすることだが「仏は経典に生きている」とうそぶく。釈迦は道義・哲理の道を開いても、あの世(浄土)までは保証していないのである。たいへん言いにくい事だが西方浄土というものは人々が創り出した想念の世界とも謂える。 さあ、皆さん神さまをお迎えしてお祭り申し上げましょう。 (本田出版:社主/平成30年7月1日) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 【サオリとサナブリの農民】 わたしは時代劇がたいへん好きでレンタルビデオをよく借りに行きます。特にモノクロ時代の作品はいいですね。映画作りに情熱と美学が感じられますね。黒澤明監督や五社英雄監督などはヒューマニズム溢れるリアルタッチがいい。只、農民に対する捉え方、描き方、其の知識といってもいいだろう、わたしは一歩引いた冷ややかな目で評価している一面もあることは確かだ。「農民は惨めで貧しいものだ」というプロパガンダ的な意図的工作が見られるからだ。NHKの大河ドラマなどは嘘ばかり、見るのも馬鹿らしい。我が本田家(本多さんとは別系統)は藤原の時代より幕末まで東北の武士という職業でしたが、地方における大名というものは農民をたいへん篤く大切に庇護していた。農民の刀・槍・鉄砲の保有を許していた。また農繁期には藩の重臣までもが農民と一緒になって鍬を手にしていたのが実態である。上杉謙信(長尾景虎)や武田信玄(武田晴信)の軍勢が強かったのは野良仕事や祭を通して、農民との絆が強固だったからである。そして国も栄える。江戸後期では水戸藩(茨城県)徳川斉昭藩侯(1800~860)は好文亭で農民と膝を付き合わせて和歌を交え、政策意見を聞いていた。藩侯の度量の深さも凄いが農民の民度の高さには驚く。 昭和・平成と覚えられないほど内閣が替わったが、昔の大名レベルで例えれば、全て幼稚で危機感も無く牙を抜かれた城主失格の阿保指導者たちですね。 前置きはこのへんで止めて前回記事に続き田植の話で、本題の「サオリ・サナブリ」に入ります。 サオリ(早下り)またはソウリ・サビラキ(早開き)は春田の神(稲魂や精霊)が降臨し、田植を開始する祝の日のことでサオリの語源の「サ」は「稲(サ)」の意で、「早(サ)」に掛けたものである。よく女性の名前で「沙織(さおり)」というのがあるが、たいへん美しい音の響きだ。是は「早下り」を「沙織」に掛けた音で、名付け親の心情や、また単に苗字との語呂合わせなど、意味を知っているいないかは別として「早苗(さなえ)」に並んで美しい日本女性の名前であり、また「紗枝・佐江・小絵」などの「サエ」の音も「稲が伸びる」の意味を持つ音である。また「冴(さ)え:冷えるの意」とは違うもの.昔はこの字は名前に当てなかったが、「サエ」の音を持つ女性はなかなか多弁な方が多いように見受けられる。 然て、田植終了後の祝や其の休日を関東・東北ではサナブリ(早苗饗:さなぶり)、中部以西ではだいたいサナボリとかサノボリなどという。此れは「早上り」の転じたもので早苗振神事(サナブリしんじ)の事である。田の神が、田植作業が完了したことを見られて神上りされる日とされ、此の日には田の水口や畔、または家の床の間などに苗を供えて田の神を祀る風習が全国的に見られる。此のサナブリも村の各家毎に行う家サナブリと村の全体行事として日を定めた村サナブリとがある。 また山陰地方では田植の終わった後の祝日をシロミテ(代満)といって、大シロミテと小シロミテとがある、本来は祝と共に忌籠(いみごもり)の風習があったとされるが今日では見られなくなった。 更にサナブリ・サノボリは秋仕事を終えて神々が帰られることでも使われる。農家で餅・団子などでサナブリを祝う風は広く行われているが、神社でも、これを神事として行う例がある。福島県大沼郡会津高田の伊佐須美神社では、御田植祭の翌日七月十三日に早苗振祭が行われる。オサナブリとも馬鍬洗祭ともいい、会津五郡(耶麻郡、大沼郡、河沼郡、南会津郡、会津若松・喜多方)の村々では、鍬鎌止めといって一日仕事を休んで祝った。千葉県館山市の安房神社では、六月下旬(播種から60日目)に行う神田植祭を早苗植神事といっている。現行の祭は、御供田苗代から取って来た苗を神前に供えて祭典を行ない、早乙女・参列者が神田に植える行事で、早苗振神事は田植祭に集約されることとなった。また部落の祭祀組織である宮座の祭としてサナブリ祭を行う例もある。奈良県磯城郡桜井町の三柱神社では、六月二十八日に田植終了の報告祭を行い、合わせて豊作祈願を行ない、地域区民もサナブリといって仕事を休む風がある。同じ磯城郡で、サナブリの日(苗代の苗を本田に移植し終わった時)に氏神の社で行う報告祭を早苗祭という例もある。 また更に、主として正月に行われる其の年の豊作予祝の為の神事芸能が五月・六月の田植の頃にもう一度繰り返されるところもある。是は田遊(たあそび)と呼ばれるもので、田の耕作から収穫までの各季節毎の作業の段階を模擬的に田の神に御覧になって頂く神事芸能で、「今年も是れの如く農作業も順調に為て、収穫至らせたまえ」と祈願を重ねるものである。地方地域によって田植神事・春鍬・春田打などと呼び、田楽(でんがく)と総称して田遊と田楽を併存しているところもある。愛知県名古屋市熱田の熱田神宮の御田植祭では6人の巫女が深紅の襷をかけて神前で、農作業の模擬的な所作を取り入れて舞っているなどしていて興味深い。 田遊(たあそび)とはもともと神の舞踊のことで内裏神楽にみる神遊(かむあそび)が原義であり、また宮中における鎮魂祭(主宰神:天之鈿女命)と同じく鎮魂の性格を持つものである。田植の神事芸能の根底にあるものは、新年を迎えるに当たって稲魂(宇迦之御魂神)や大年神(穀物の守護神)などが村に来臨され、其の御威力が村を覆って付着安定を願う行為なのである。 以下、国学院大学関係資料では、 鹿児島県地方の田植祭には田の神と呼ぶ翁面の役が出て「百姓どもよく聞け」という呼びかけから長々しい祝言を唱えるが、他の地方でも爺・姥二体(福井県今立郡池田村の棒ちぎり神事など)、あるいは翁一体(奈良県磯城郡菅原神社御田植祭など)、または穂長・福太郎などと呼ぶ白面・黒面の老人・聟(むこ)の役(静岡県三島市三嶋神社の三嶋御田打)が出て、種を蒔いたり、田廻り・苗代打・田ならし・水口びらき・草踏み・苗代見廻り・鳥追いなどのしぐさを順次に演じてみせたりする。すなわち神(神人)が其の年の田の出来栄えを前もって見せておいて、当年の農作を予祝するという形である。あるいは田男・田主・太郎次・太郎・作大将・作頭・稲本・禰宜などと呼ばれる田の精霊、または田の代表者とみられる者が主役になって行うこともあって、是の場合には、神に田の出来栄えを見せて、「今年も是の様にお願いします」という形になる。 一応このへんで此の記事は終わりますが、農民の稲作に対する情熱が多少なりともお伝えできたなら幸いです。 (本田出版社主:平成30年6月13日) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 【サンバイ樣】 前回に続き、今回も「田植祭」についてもう少し書いてみたいと思います。 「田植祭」ですが、天照大御神が下した『日本書紀』の三大神勅の「稲穂の神勅」に依る皇室行事と、其れに習った一般神社の神事としての御田植祭があり、また稲魂(宇迦之御魂神)を主体とした稲荷信仰と一体となった田植神事に大別される。 西日本には囃田(はやしだ)というものがある、六月中旬頃の田植えの季節、サンバイ樣という田の神をお迎えして小村毎に全体が協力し合って行う田植行事で、植女(早乙女)たちの田植えの進行に合わせて、ねぎらいを以って多くの田植歌や囃子(はやし)が奏せられるので、其の田を称えて「囃田」という。有名なものに広島県山県郡大朝町新庄の囃田があるが、其の他にも広島県北部一帯から岩見・出雲地方に広く分布している。また、広島県山県郡北広島町任生地区や島根県雲南市入間地区など今日では「花田植」と称して盛大に行われているが「囃田」を原型としている。 また平安初期に既にあった豊年予祝の「田遊(たあそび)」が田植儀式と融合し、其れの持つ芸能性が後に田を離れ、「田楽(でんがく)」という新しい流れを一方でつくっていった。「囃田」や、今日の「花田植」といわれるものは、田楽のような多彩な芸の種目など田植作業上の必要性から除かれているが、田楽形式と言えるのだろう。 ここで「囃田」の田植えはじめの祭りとしての形がどのようなものか少し触れておこう。先ず、飾り付けられた牛が田に入り代掻きをし、次に烏帽子・垂衣姿の田長(たおさ)がサンバイ竹といって竹の棒の持ちて部分まで細かく割り裂いたものを片手に持ち、もう片手にはこすり合わせる棒を持っている、是のササラのようなもので音を鳴らし田植の音頭を取るのである。植女たちは皆黒衣装に紅たすきを掛け、菅笠をかぶり、田に入ると横一列に並んで田長と相対し、其の後ろには囃子方(笛・小鼓・太鼓)が配置に着く(全体として5,60人の大構成のものもある)。田植のはじめに、田長が祝詞(のりと)を唱え、田の神を迎える「サンバイ降ろし」の儀を執り行い植女たちが一斉に笛・太鼓のリズムにのせて早苗を植えてゆく。田植え作業の間は田長と植女とが田植歌を問答形式で掛け合わせて歌われる。田植歌は時間の移り変わりに合わせて朝歌・昼歌・晩歌と歌われ、夕刻の作業終了時には再び田長が田の神をお送りする「神上(かむあげ)」の儀を行い、関係者一同全員揃ったところで大宴が開かれる。 然て、此処に見る「サンバイ樣」であるが、色々と調べてみるが具体的にどのような神なのか出てこない。あれこれ考えて、わたしなりに稲荷神社をヒントに確度が高いと思われる答を見つけた。サンバイとは「山背(さんばい)」のこと。すなわち稲荷塚、京都市伏見区の稲荷山のことで、ご鎮座の宇迦之御魂神は伏見稲荷大社の祭神である。田長はササラを手に背後を稲荷山と想定して神降ろしの祝詞を奏上している、いわば此処でいう田長は呪師(のろんじ)、または神人の性格を持っている。ササラは笹の葉が風に吹かれて擦れ合う事によって出る音を擬音楽器として再現するもので、「さや・さや」「ささ・やぐ」「ささ・やか」「ささ・めき」「ささ・くれる」などの言葉の語源は笹の「サッ・サッ」音からきている。是の小さな音は神の囁きの声として、内裏清署堂御神楽の時代から採物歌に現れている。 「みづがきの、神の御代より、笹の葉を、たぶさ採りて、遊びけらしも」 (遠い神代の昔から、こうして笹の葉を手草として神遊びしていたらしい) こしてみてみると、御田植祭の早乙女はただの植女ではなく或る面、巫女の霊的性格を帯びていることが解る。 更に、参考までに書き添えて置かなければならない例がある。日本三大御田植祭の一つに福島県大沼郡会津美里町の伊佐須美神社(ご祭神は伊邪那岐・伊邪那美命ほか)がある。この神社の創建は第二十九代欽明天皇朝二十一年(560)でたいへん古く、伊勢の朝田、熱田の夕田、そして伊佐須美神社の昼田といわれ有名である。この神社の御田植祭では神人の代わりに神子人形という田の神と早乙女を模した等身大のものが十柱ほどが田の畔にずらりと並ぶのである。儀式がはじまると田の神三柱を担ぎ持った者が田に入り足で代掻きをする、是は田を祓い清める重要な作法である、是が終わると控えていた植女(早乙女)が田に入り早苗を植えていくのである。儀式形態がたいへん古いので田楽のようなものは加わらないが、神社境内などで行われる早乙女踊りなどは囃子方も加わって前出の花田植のように賑やかで踊りもよく似ている。また、同じ福島県喜多方市内の慶徳稲荷神社の御田植祭にも神子人形が七柱ほどが登場している。 日本列島、南国から北の大地まで米作りが行われています。日本人一元の味覚を満たす良質なジャポニカ種が生産されている事は世界に類を見ない、大和民族の先人の叡智と、国家の誇りであります。しかしながら「種子法廃止」の事をnetで(経済評論家三橋貴明氏の解説)知った時は政府に対する怒りがこみあげてまいりました。国の牙城までも日本自らが崩していく樣は外堀・内堀を埋められた大阪城のようなものである。愚かしい政治家たちに此処まで日本文化を踏みにじられ、愚弄され、いつの間にか我が国は取り返しのつかないところ迄きて了った。 (本田出版:社主/平成30年5月29日) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 〔稲荷神〕 ブログ記事がだいぶ横道にそれてしまったのでまた本来の路線に戻します。今回は「稲荷神」を取り上げたく書いてみました。稲荷神については数年前にもブログに載せたのですが、まだまだ一般的には誤解が多いようです。 ご案内の通り、わたしも神道家ですので、うちの室内三社殿(天津社・国津社・祓戸社)には氏神さまであらせられる天之鈿女命(アメノウヅメノミコト)をはじめ天照大御神、天之御中主神、伊邪那岐・伊邪那美命、大山津見神、大国主命など二十柱をお祭りもうしあげております。稲荷神(豊宇気大神・宇迦之御魂神)も国津社に御鎮座なされておられます。 稲荷神の一般的な認識として、よくいわれることには、「商売繁盛の神様」とか「金運の神様」とか「農業の神様」とか色々といわれることも多いのですが、境内に雄雌一対の狐像が在る事から、狐が御神体と思われている人も多いのではないでしょうか。稲荷とは、「稲生・稲成・稲里」で、稲魂神(イナダマカミ)のことです。その御神名を、『古事記』では宇迦之御魂神、『日本書紀』では倉稲魂命と記し、いずれもウカノミタマと読み、「五穀豊穣」を掌る女神です。また、神社では「保食神(ウケモチノカミ)」の別名でお呼びすることが多い。この神は毎年田植の頃になると山から里へ下りてこられて稲の成育を見守って下さるのですが、実はこの神よりも一足早く里に下って来られるのが狐で、稲が稔り秋になって人々が刈り入れが済むと狐は山に姿を消し、またこの女神も山へお戻りになられるのです。此の事から狐は稲魂神の案内役で、眷属として稲荷社の境内に祭っているわけです。 福島県喜多方市慶徳町に御鎮座する慶徳稲荷神社は室町時代あたりの創建年とされ比較的に新しい社になるが、毎年七月二日頃行われる御田植祭では、六人の植女(早乙女)が田植え歌を唄い、それに合わせて他の六人の植女が田んぼに入って早苗を植えていくのだが、この時、畔に並ぶ子供たちが植女たちの前に苗打ちする、この子供たちはみな白い狐の面を頸から提げている、此の神社の例からも稲と狐の関係がよく分かります。 今は見られなくなりましたが、田植えの時、田んぼの四隅に串(棒)を刺し立て紙垂(しで)を附けたり、また田んぼの中央に「おしるし」といって串を刺し立てるのも稲魂神である宇迦之御魂神の来臨と御霊徳をいただく古来からの神事の一つであり、さらに其の御神徳を仰ぎ示現為む神に、ご神名からも関係性が察せられるように櫛稲田比売神(須佐之男命の妃神)等がおられる訳です。御神名の「櫛」は「串」に通じているのです。 雅楽の歌物に『催馬楽(さいばら)』というものがあるが、是の中に「妹之門(いもがかど)」という題のたいへん古い歌が残っている。 「妹が門や、夫が門、行き過ぎかねて、わがゆかば、肱笠の、雨も降らなん、しでの田長、雨やどり、笠やどり、やどりてまからむ、しでの田長」と見える。 是の歌を現代口語訳するのはちょっと問題があるので、netに流せませんので、要点として、五月の田植えの情景に「しでの田長(たおさ)」が登場していることである。「しで」は「紙垂」のこと、「田長」は植女たちのまとめ役のこと。大宝元(701)年に音楽官庁雅楽寮が設立され、すでに国風(くにぶり)の歌がたくさん歌われていた。此の時代にはすでに「田の神」を祀ることを田長が行っていたことが分かる資料である。また、『延喜式祝詞』の成立が927年頃であることを併せて記したい。 では、どうして五穀豊穣の神が商売?盛の神になったかというと、江戸中期頃、京都・大阪・愛知の商人が諸国に「商売の神」として伝えていったからである。 この稲荷神の社は一部大きな神社を除いて小規模な単立神社が多く、全国に約三万社以上あるといわれる。また、屋敷内社として祭る稲荷社を含めるとたいへんな数となることがお分かりでしょう。屋敷内社のことは一先ず置いて、この三万社の稲荷社の多くは京都市伏見区稲荷山の稲荷神社(伏見稲荷大社)総本宮をはじめ、茨城県笠間市の笠間稲荷神社などから勧請されたものである。 『古事記』に曰く、須佐之男命が高天原での悪行ゆえに追放され、その放浪途次に、大宜津比売神(オホゲツヒメカミ)のもとへ食べ物を乞いに行った、比売神はもてなすべく鼻や口、尻から種々の食べ物を取り出し、料理して勧めるが、須佐之男命は汚らわしい物を奉ったとして大宜津比売神を殺して了います。その殺された体から蚕・稲・粟・小豆・麦・大豆が出てきたという。 また、『日本書紀』の一書(あるふみ)では、天照大御神の勅命で月読見尊(ツクヨミノミコト)を葦原中津国の保食神(ウケモチノカミ)のもとに遣わした時、保食神はもてなす為、口から色々なものを出して勧めたので、月読見尊は汚らわしいと怒り保食神を殺して了った。後に天照大御神は天熊人(アマクマヒト)を遣わしてみると、保食神の体は稲・麦・粟・稗・大豆・小豆・蚕・牛馬に化成していた。 是の二書に登場した大宜津比売神(オホゲツヒメカミ)と保食神(ウケモチノカミ)の訓の「ケ(ゲ)」と「ウケ」は「食物・食べる」の意であり宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)の「ウカ」と同義である。また、伊勢神宮外宮の豊受大神宮の祭神の豊宇気毘売神(トヨウケビメノカミ)の「ウケ」も「ウカ」に同じで稲荷神であることが分かる。今日でも「御饌(みけ)」や「朝げ」や「夕げ」という言葉が残っている。また、ここ数十年聞かなくなったが東北弁のなまりに「食(け)え:食べなさい」があった。うちの両親も東北人なので東北弁はじかに耳にしていた。このことからも宇迦之御魂神の御神名は穀霊そのものなのである。 もう20年以上前のことだろうか、神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮の社頭で韓国の演技団が衣装をまとって笑いをとりながら何やら演技していた。団長らしき男性がマイクをもって流ちょうな日本語で解説をしていたが、其の演技の内容ときたら『古事記』の須佐之男命と大宜津比売の話と殆ど同じだった。其の団長らしき男が言うには日本の『古事記』神話は朝鮮半島のコピーだと言うのだ。勿論そんな事を暗に信じる訳がない。その後、国内での先史考古学の科学的研究も進み、多くの学者の話を整理した結果、わたしはおぼろげながら答を見つけるに至った。朝鮮半島の遺跡の年代と分布、其の半島で見つかった炭化米等の年代と遺伝子について、日本国内では山陰地方から九州にかけて朝鮮半島と自由に往き来していた事実、此の頃の韓半島には所謂、朝鮮人なる人間は殆ど住んでいなかった事(約4千年前)、また数年前にブログに載せた日本国内の「土偶の分布」など。今は日本古代の「言語と人の移動」について研究しているが未だ大した成果はあがっていない。しかし此れでほぼ確信した、今までわたしの考察では朝鮮半島からの逆輸入のみに考えを置いたものだったが、此れでは日本の信仰が半島に渡り醸成され、再び日本の信仰の一つに戻ったことになる。此れは間違いである、今は考えを修正した。 古事記や日本書紀の書かれている事は滑稽さと誇張はあっても大筋正しいと思うが、只、『日本書紀』は大陸を強く意識して書かれたものだから、わたしとしては一歩間を置かざる得ない箇所もある。 稲荷神は大陸から渡来したものだと言っている人がいまだに多くいるが、此れは次に書く例外を除き、渡来でも逆輸入でもなく、「日本の固有の神」であると、多くの霊験の事実をも踏まえ、わたしの信仰もまた此処に立脚しているのである。 さて、皆さんは「日本三大稲荷」という言葉をお聞きになっておられる方も多いでしょう。伏見稲荷大社(正式名は「稲荷神社」)と笠間稲荷神社、そしてあと一社ですね。それは愛知県豊川市の曹洞宗妙厳寺内の稲荷神で通称「豊川稲荷」で有名です。是の稲荷神は大変な神通力を発揮される女神で霊験あらたかにして、江戸時代中期には大阪商人たちによって「商売繁盛の神」として広まっていった。大都市部の屋敷内社や会社敷地内に是の稲荷神が多く祭られているのもうなづけよう。 神奈川県の或るバスツアー会社の「一泊二日お伊勢参りツアー」では必ず行程に組まれている人気のある所です。わたしも何度も行きました。わたしの場合は失礼のないようご挨拶程度の参拝ですが。 此の豊川稲荷神は仏典に見える陀吉尼天(ダキニテン)に習合して祀ったもので狐は故事附けしたものと言えよう。是の陀吉尼天はサンスクリット語のダーキニーの写音で、人の死を半年前に察知し、其の人肉を食らうといわれる羅刹(女夜叉)、密教では胎蔵界曼荼羅の外金剛部院に配される悪鬼のこと。もともと是の女夜叉はヒンドゥーの女神カーリーの侍女であった。また密教の秘法を修すれば如何なる困難も神通力で以て破るという。よくこんな話を聞く「あの(屋敷の)お稲荷さんを勝手に動かすと災いがある」と。わたしも不思議な霊的体験をした大工の話を聞いたことがあります。やはり神の力は偉大ですね。 わたしは思うのですが、願い事をして神の力をお借りする以上、「借りたものは、必ずお返しする」という気構えがなければ信心は出来ませんね。わたしはいつも自分に言いきかせるのですが、「御利益信心のさもしい心を捨て、敬神一筋にお仕え申し上げる誠が大切である。何事も精一杯努力し、それでも成し得ぬことなら素直に神にお任せ致しましょう」と。 大変つらつらと長くなりましたが、此の「稲荷神」についてだけでも本一冊書けるほど深いものです。徒然にて。 (本田出版:社主/平成30年5月9日) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 【心配なこと】 淋しくなりました。 下記の銘柄は全て日本の会社です。若い平成世代の方々には聞きなれないものも含まれていることでしょう。 一類 YASHIKA,RICHO,NIKON,ASAHI,CANON,KOWA,MIRANDA,FUJI,MINOLTA,SIGMA,ZENZA,MAMIYA,OLIMPAS,etc 二類 COROMBIA,SANSUI,AKAI,PIONEER,VICTOR,TECHNICS,MITSUBISHI,HITACHI,TOSHIBA,SANYO,ONKYO,MARANZ,PANASONIC, YAMAHA,TEAC,etc 一類はカメラ製造部門、二類は音響機器製造部門で、60年代後半から90年代まで大活躍していた日本の基幹産業でした。其のきらきらしい栄華も、一部の銘柄を除いて夢の跡となってしまいました。 思えば此の頃は本当に良い時代でした。政治は二流であっても、人々は勤勉実直で国に誇りを持ち明日に向かっていた。若い男女は毎晩手紙を書いて文通をしていた。町を歩けば男女が仲良く手をつないで歩いている。公園では三脚を立ててカンバスに油絵を描いている。子供たちはランドセルを放って木登りや綱を垂らしてターザンの真似事を楽しんでいる。神社の境内では石に腰かけて読書をしている学生、伊藤左千夫や山本有三でも読んでいたのだろうか。田畑の水路でドジョウすくいしていた時代が懐かしい。 こないだ新宿行きの小田急線に乗っていた昼間の事、座席が満杯で、扉の脇に小さな娘さんと若い母親が立っていた。母親はゲームでもしているのだろうか、携帯電話に夢中である。娘さんは右腕で手すりにしがみ、左手で母親の顔を見つめながら服の裾を何度も引くのだが「うるさい」と言わんばかりにあしらっている。こんな光景を見ていると、切ないと言うよりも、情けないと言う思いでいっぱいだ。わたしは説教じみたことを言えるような人間ではないが、ゲームやワープロなどというものは人間の英知を腐らせる元凶の一つであると思っている。わたしも昔は漢字筆記には結構自信があったが、ワープロを使い出してからは漢字の筆記・活用・思考能力が急速に衰えた。只、レポートや記録など、仕事上やむなくWordやExcelを使っているが、こんなもの出来れば無い方が良い。勿論ゲームもそうだ。確かに、軍事シミュレーションや環境シミュレーション、画像・映像処理、機械制御等にPC端末は大活躍だが、快楽の用途に使われると即物的に民度低下を招く。本の執筆の場合は監修と二人三脚で行い、ゲラの段階で複数人が間違い探しをするが、それでも国語力の低下による見落としがある。是は出版界全体に言える事だろう。 また、人が機械を相手に喜怒哀楽を共有するAI時代など決して遣って来てはならない。人と人とのコミュニケーションは五感と第6感、そして言葉(言霊)で完結されなければならない。人を活かすも殺すも言葉次第といわれるほど、言葉は大切である。それには殺伐荒涼とした時世の風潮を改めるべく、我々庶民一人ひとり自分を見つめ、国会議員も男女平等だのヘイトだのセクハラだのと愚かしいことを言っていないで、日本の在り方を過去の歴史から学んで欲しいのです。 ここ数年、日本国を奈落の底に突き落とさんと暗躍する魑魅魍魎の勢力が表面化してきているが、彼ら大半の頭の中は無国籍である。中共にも属せないし、上下朝鮮にも属せない。確かに大陸側の意向を受けて煽動している者も多いだろう。国会が1年半も空転しているのは誰が見ても怪しい、スパイ活動をしているとしか思えない。マスコミも勿論のことだ。 また、こういった賊は昔からあった。だが其れは将軍家の政策に対してが主で、皇室をなくそうなどというものではなかった。奈良・平安の時代から江戸末期まで渡来人の子孫末裔と日本人はうまく住み分けて暮らしてきたが、戦後になっていかがわしい教育と共に徐々に彼らのDNAが大陸を呼び覚ますのであろう。 最近、「中国は崩壊する」などと短絡的に物を言っている者が多いが、「崩壊」の意味が解って言っているのだろうか。どんな国にも勢いの波が有る。ましてや中国大陸のことだ、歴史をきちんと学べば先が読める。平安時代に貴族の間で囲碁がたいへん流行った。其れは当時の日本には無かった新しい戦略の概念であったからだ。敵を囲んでいたはずが、いつの間にかごっそりと自分の領土を奪われるはめになる。この辺のことは国際政治学者の藤井厳喜氏がnet動画で時折たいへん詳しく、また示唆している。此れは飽くまでもわたしの考えであるが、弟二のノルマンディーは我が日本で起こり得ると思っている。中共にとって人民が3分の1減ろうが大した問題でもない。逆に13億という数の人民が国政に問題なのである。 日本全国津々土浦々まで8万社の神社が面で以て守り固めているのに皇室自らが「開かれた皇室」などと言ってはいけませんね。威厳もカリスマ性も自ら放棄しては国の首長としての役目は果たせません。実権力は無くても長は長です。 最近、皇室を語るとき、皇室神道と神社神道をごっちゃにして話す人たちが目立つが、是は国民にあらぬ誤解を与えてしまう。もっと勉強してほしいですね。 何かとりとめのない話になって了いましたが。 関係のない話ですが、最近net上で、八代亜紀さんの「愛ひとすじ」が多く見られますね。ついでに「おんなの夢」もお願いします。それとイワノビッチの「ドナウのさざなみ」のボーカル版も。 (本田出版:社主/平成30年4月27日) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 〔和装製本、他〕 最近、本田出版以外にも和装本がちらほらと見られるようになって参りました。たいへん頼もしいことですし、また製本業者の方のご苦労を察し致します。 本田出版が和装本を作ろうと考え出したのはちょうど10年前のことですが、何しろ製本職人が途絶えて了っていて、製本を依頼する所が見つかりませんでした。確かに京都の方にはまだそういった職人さんが少しおられるという情報は耳にしていましたが、京都ではあまりにも遠すぎて頻繁に打ち合わせなんか出来ません。それでは、自分で何とかやってみようと和装製本について一から勉強を始めた訳ですが、これがなかなか大変でした。作るのは和装本ですので当然のことながら折丁となる紙は和紙または其れに準ずる紙質です。ところが印刷した頁紙を自動紙折り機に通した結果まったく折る事が出来ませんでした。是が和紙と洋紙の違いです。初歩的な失敗に唖然としましたね。どういうことかと申しますと和紙の繊維を折るには其の部分を十二分に「しごく」とういう作業が加わらなければなりません。勿論繊維の並び方向も考慮してではあるが。折械というものは単純にローラーで圧迫を加えて折ろうとするだけのものですから折れないのも当然である。 然て、正確かつ速く紙を折るにはどうするか、わたしは毎晩思考を繰り返し、幾つかの案に辿り着いた。わたしはドラフターに向って図面をひいて専用冶具の製作に取り掛かった訳です。そして汎用冶具が完成するとさっそく試したものの、紙の皺や折づれに悩まされ、それから何度も改良を重ねながら何とか物にしました。本の綴じ穴であるが是はやっかいであったが、縦連多軸穴あけ機も考えられたが、テーブルスライディング方式を採用して、時間は食ったが解決した。あと細かい事含めて色々あるが、其の辺の技術のことは独立した職業として成り立つ為、詳細を明かすことはできませんが。 しかし、たかが和装本と思われるかも知れませんが製品レベルまで持っていくのに2年近く開発研究を要しているのである。 此処でわたしが言いたい事は、一度失われた文化や伝統技術を、新しい技術を用いながらも、再び復活させる事が如何に大変な事であるか少しでも解っていただければと思う。 以前、都内の或る工房で昭和初期の江戸小紋の染型紙を見せられたが、其の美しさと精巧さに舌をまいてしまいました。もう其れだけのものを彫れる型職人はいないとのことです。其の工房の社長が言うには「今の人は根気が無いし、視力も劣っている」と、一言。今はシルクスクリーンや捺染機が発達しているが、実際、摺った紋様の細部の「キレ」は渋型紙には及ばないのである。またこういう話は他の伝統工芸の分野でも見られます。 どんな分野でも言えるが、起業して、先ず最初の1年で約70%以上が脱落し、3年続けば優等生と言える。唯だ言えることは「人まね」では「二の手」が打てないということですね。ましてや景気が落ち込んでいる今は大変苦労することだ。二流の国会で三流の政治をやっているような世の中では話にならない。 (本田出版:社主/平成30年4月16日) 〔言いたい事あれこれ〕 漸く暖かくなって参りましした。庭の桃の木も花が散って、八重桜が咲きはじめていますが、インターネット動画など見ていても妬み、嫉み、謗りが社会風潮となって、歪んだ時世を映し出している。また日本人として守らなければならない一線を逸脱したとんでもない動画まであります、特に皇室に関わるものですが、不敬甚だしい誹謗中傷が意図的に流されていることは忌々しき事である。また政治家も利権や金の為なら中共や上下朝鮮の手先となること恥じず、国をも売る下衆と化した。このままでは沖縄・北海道は中共の手に落ちるだろう。いや、中国共産党の本当の狙いは20年以内に日本全土を掌中にする事だ。習近平は日本の空気を吸い、日本の水が飲みたいと思っていることだろう。 最近まで本田出版に中国の交通大学から多数の誘いのメールが届いていたが、わたしがこんなものを相手にするとでも思っていたのだろうか、随分と甘く見られたものだ。確かにわたしは中共や上下朝鮮に対してはかなり辛口で物を言ってきたし、今後も言う。是に因って、わたしが相模湾や鹿島灘の海に沈むことはあるまい。仏教系・キリスト教系・その他カルト教団には要注意だ。 わたしは中国製のパソコンは使わない。米国でも公の機関では中国製パソコンには特別なスパイソフトが組み込まれているとして使用禁止になって久しいが、携帯電話の個人メールアドレスも大変危険である。わたしは素人なので詳しくは知らないが、専門家の話に依ればパソコンや携帯電話を乗っ取ることは容易い技術だそうだ。 net動画の話になったので、わたしはよく動画の音声のみを聴きながら物を書いているのだが、結構為になるものも多い。チャンネル桜、桜井誠氏のオレンジラジオなんか面白い、此の両者は犬猿の仲らしいが、色々と手段は違っても言ってることはどちらも正しいし、傍から観ているとまるで薩摩と長州の関係か。元ウクライナ駐在大使の馬淵睦夫氏の話なんかとてもいいですね、こういう方に日本国の官房長官をお願いしたいものです。最近、国際政治学者の西尾寛治氏のお姿が見られないないので残念である。身近な生活知識の学習としては科学者の武田邦彦教授の話なんかたいへん為になります、読者の方々へお奨めです。 武田教授といえば、「たばこ」の話になりますが、わたしはヘビースモーカーでして、50年近く煙草を吸い続けているが未だ止めようなどと思ったことはない。煙草がないとどうも考えがまとまらない、煙草にはそんな効能がある。また、煙草と肺がんは無関係ではなかろうかとも思える。うちの家族も親戚も皆煙草を吸っているが、肺がんで亡くなった方は一人もいません。かなり昔のことになりますが、健康診断で「貴方は長生き出来ません。煙草と酒はやめましょう」と医者から言われましたが、わたしも70歳近くなりましたが、至って健康で風邪もここ10年間ひいていません。煙草と酒がなければゆったりとした時の流れを味わうこともなかったでしょう。わたしは煙草が無いと物が書けない体質なのかもしれませんが。 4月からまた煙草の値段が上がりましたが、肺がんを減らし国の医療費を抑える為だとしているが、こんなものは唯だ税金を取りたいだけの話である。こんな姑息な手をつかってまで税金を集めたいのか。此れでは懲罰ではないか。一番被害を受けるのは頭脳労働をしている人たちです。茨城県の筑波研究都市には日本の頭脳が集結し、其の数は2万人、その内の博士号は8千人です。愛煙家は相当数おられるでしょうが、立派な研究をなさっている彼等だって、おかしな偏向番組を放送しているNHK職員よりも年収は低い。東京都知事の煙草に関する阿保な条例も酷いが、どうしてこんな世の中になってしまったのだろうか。 ちょっと関係ないですがお奨め音楽、八代亜紀さんの「愛ひとすじ」、ショスタコーヴィッチの「セカンドワルツ」。スピーカーはやはり30㎝ウーハー3ウェイにかぎりますね。 (本田出版:社主/平成30年4月13日) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 【新刊のお知らせ】 『更級日記』A5版、2冊組。平成30年5月発刊予定。 頁紙は従来通りA4判高級紙二つ折り製本.。 価格未定。 (平成30年3月16日) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 〔節分・大山津見神〕 今回は節分について書きたいと思います。 ご存知のとおり節分(せちぶん)は二十四節気の一つである立春・立夏・立秋・立冬の前日のことですが、やはり春のはじめである、寒い冬を越して残雪の合間のフキノトウの芽生えを見ると、今年一年、頑張ろうという気が湧き立ちますね。 昔から、正月から節分の頃は全国的に様々な風習がみられ、神事的行事もたいへん多い。冬の節が終わって春の節に移ることから、山形県では「寒離れ」ともいう地域が有り、また島根県では節分の夜を「大歳」と呼び、山口県では「ミテノヒ(年の終わりの日という意味だそうです)」と呼ぶ地域もあり、立春を年の改まる日と考える風習があります。特に多いのが「籠り型」の風習で、謹慎物忌みし年越し(立春を迎える)するというもので、特異な例に宮崎県児湯郡では、現在でも残っているかどうか分かりませんが、節分の夜に厄神が来て器物に焼判を押すというので、其の日、夕方には屋外の農器具を取り込んで謹慎し、朝を迎えるのである。また、厄払いへと発展したものもあり、「節分籠り」といって、節分の夜、若者が薪(年木)を持って神社へ集まり、神前の火に投じて籠るなどあって、特に近畿地方では節分に神社詣でをし厄払いすることを「節分詣」と称している。 本来、節分というものは正月から連続するところのひと塊の行事の一つであったが、渡来した陰陽道の影響を多分に受けて、近畿地方を中心に年越しを正月とし、神の正月を節分とする観念が固定されていった。さらに、西日本では年占・成木責・土龍追などの行事を節分に行う風習が各地にあり、特に節分の夕時、柊の枝にイワシの頭を刺して戸口に立てたり、悪臭を放つ物を火で炙ったりして鬼や厄神の侵入を防ぐ風習が多い。一方、此れとは対照的なものが秋田県男鹿半島の神事で、陰暦正月15日の夜に行われる「なまはげ」である、鬼のような恐ろしい恰好をして、奇声をあげ村々を歩き廻る。面白いことに是の鬼たちは家族でやって来るのである。それを迎え入れる家の主人は酒を以って饗応すると、鬼たちは幣帛を振って祝言で礼する。言わば鬼といっても神人であることが窺える。一説には大山津見神の家族たちが人々の暮らしを心配して村々を巡回する日とするもある。この信仰はかなり古く奈良時代まで遡れそうである。 さて、節分行事というと「追儺(ついな)」について書かねばならない。 鬼やらい・なやらい・大儺(だいだ)・駆儺(くだ)ともいう。追儺、即ち例の「鬼は外、福は内」の其れである。宮中に於いては毎年12月晦日に行われていたが、此れが節分に行われるようになったのは室町時代以後のことだといわれる。元々この行事の原型は中国にあり、唐代の儀式を輸入したものである。中国の古俗に、各季節の終わりに「儺(だ)」と称して悪鬼邪気を掃う行事があった。平安・鎌倉時代の節分行事としては「方違(かたたがえ)」が主であった。此れは陰陽道に基づいて、其の夜だけは邪気を避けるため、居所を替えるというもので、貴族の間で行われていたようだ。 延喜式によれば、宮中で行われた追儺は、大晦日の夜の戌刻(午後8時)、王卿は長楽門東廊西に集合する、陰陽寮の官人が桃弓・葦矢を親王以下に配布する、そして天皇は紫宸殿に臨席せられる。大舎人二十人が鬼を追う方相氏(呪師)に扮し、仮面をかぶり、黒衣朱裳をまとい、右手に鉾、左手に楯を持つ。その方相氏の後ろに王卿がついて鬼追いの用意がされる。そして、陰陽師が斎郎(さいのお)を率いて月華門より参入すると、追儺祭文を読み上げる、それが終わると方相氏は大声を発し鉾で楯を三度打つ、それに呼応して親王以下殿上人たちは桃の弓・葦の矢をもって、内裏の四門をめぐって疫鬼を追い駆逐するのである。しかし、此れの行事には具体的に鬼なる役は登場しない、姿無き鬼を追うのである。ここが最も重要なことで、古代の日本人は、「鬼とは心のうちに潜むもの」と考え、それが神道の「祓(はらえ)」の理に重なっていくのである。 此の宮中追儺の行事も、観衆庶民の誤解により、殿上人が鬼追いの主役で方相氏が鬼の役と勘違いしたことにより、平安末期には「方相氏、鬼名也」と『辞書伊侶波字類抄』に見る。此のことから民間では、具体的な鬼を想定し、桃弓・葦矢のかわりに豆を以って鬼を追い出す行事へと変化していきました。 此の風が我が国に渡来したのはかなり古く、文武天皇御代(慶雲三年:706年)に、全国的に疫病が流行し、このとき多くの国民が亡くなったので、疫病の蔓延を食止めるため天皇の指揮の下、土牛大儺(中国式追儺)を行い、また、実際の信仰上、霊験・神徳が認められるとして、大山津見神の託宣により、この神を一国一社勧請した。崇神天皇朝の疫病流行の際にも天皇が勅令を出し、この神を祀っている。 つらつらと長くなってしまいましたが、本田出版の『紫式部日記』にも、追儺の夜の「引き剥ぎ事件(女房の衣装の剥ぎ取り)」など実際の話が書かれています。 (本田出版社主:2018/01/30) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 〔神と人、共に食す〕 新年を迎えるを契機に神祭りをお考えの方も多いかと思います。今回は「神人共食」について書いてみたく思います。 現在、日本には神社本庁が統括する神社は伊勢神宮をはじめとして約8万社あります。毎年各地方地域では郷土色豊かにお祭 りが繰り広げられおります。年間色々な祭式行事がある中で、最も重要なものは各神社の例大祭や神嘗祭(10月15日~17日: 伊勢神宮)・新嘗祭(11月23日:皇室と一般神社)・大嘗祭でしょう。そもそも祭りの本義とは「神々の来臨(神界から降臨)を待ち 、饗応と共に人もまた一緒になって食事を楽しむ」ことにあります。「祭り」の語源は「待つ」である。 「食」は生命と活力の基本であり、神と共に食する行為は再生と更新の呪術的意味を持っています。 神に供する「食べ物」を「神饌(しんせん)」といい、天皇に供するものは「御饌(みけ)」といっております。 神饌は神社の伝統格式やしきたりにより各社特色ある品目が供進されます。また其の構成も大祭式・中祭式・小祭式によっても品 々をのせる三方の台数に違いがあります。もちろん祭式にかかわらず毎日お捧げされる神饌があります。 此処では、実際に神さまへのお捧げものとしてどのような品々があるのか、またご家庭での日々の神祭りに、神社神職の斎(いつ き)の奉仕とは遠く及ばないまでも、真心のこもったお仕えが出来るのか皆様と一緒に見ていきましょう。 先ず清酒・塩・水・御飯(御赤飯は場合による)・御餅をはじめとして、大別して熟饌(じゅくせん)・生饌(せいせん)・乾物・野菜・ 果物・菓子・それと贄(にえ)などがあります。 熟饌とは煮炊き加熱調理された物のことで煮物・焼き物など、生饌とは加熱せずに生の状態で調理されたものでお刺身などよい 例で鯛のさばき方が神事として残っております。乾物は昆布やワカメなどです。野菜・芋類・五穀などは生饌の部類というよりも、 その季節の収穫のご報告という意味合いが強いです。こう見ますと神饌とは人が日常食しているもので構成されており、言わば 一部の食品を除いてすぐ食せるものばかりです。人が其の場で食せない物は神々とてお召し上がりにはなられないということです ね。 此処で贄(にえ)と言う言葉が出てきましたが、今では死語となってしまいました。所謂狩猟や捕獲による獲物のことです。 よく「生贄」という言葉が使われますが、是れは「生きた獲物」という意味です。 古代歌謡前張(さいばり)の末歌に「しかりとも や わが背の君は あいそ 五つとり 六つとり ななとり やつとり ここのよ 十をはとり 十をはとりけむ(鳥も取られまいと仰ろうことよ。そうかも知れませんが、愛しい貴方よ、きっと貴方のことですから、 五羽取り、六羽取りと十羽ほども取られたのでしょうね)」。 また神楽以前の古歌に「猟夫(さつを)らが 持たせの真弓 奥山に み狩すらしも 弓の弭(はず)見ゆ(猟師等が取り持つ檀で 作った立派な弓よ。今、山中の茂みに分け入って御猟(みかり)をしてゐるらしい。あの長い弓の弭が見えることよ」。此の二つの 歌は神々に捧げる為に狩猟する贄人を歌ったものである。此の事からも御神前に狩猟で得たものをお捧げしていたことが解りま す。恐らく伊勢神宮以前の最古社である鹿島神宮や香取神宮の御神前にも鹿や猪なども捧げられ、直会(なおらい)として人々が 頂いたのでしょう。 今では見られなくなりましたが昭和40年頃まではマタギが熊を獲り御神前(正しくは神社境内または社頭)で捧げ神事の後に関係 者が家々に持ち帰って、料理し動物性の蛋白源としておりました。只、伊勢神宮にはこのような風習はなく『倭姫命世紀』にも記述 がありません。今日、神社の出張祭儀の地鎮祭などでは、贄の代わりとして、三宝に鶏卵を宇豆高く積み並べてお捧げ物の一つ としている場合もあります。 さて、一般ご家庭の祭祀の事ですが、神さまをお迎えしてお祭り申しあげるに、御神饌(お食事)は如何様に仕え奉るべきかという ことですね。先ず勧請や分祀などのややこしい話は抜きとして、神社さまから畏敬と慶びを以て御神札を頂いたならきっと我が家 にお招き申しあげられることでしょう。例えば伊勢神宮の天照大御神さまも我が家にお祀りする天照大御神さまも全く差のない同 神ということです。伊勢神宮の毎日の神饌(お食事)にはとてもとても及ばないまでも、各ご家庭ならではのお仕えの仕方があるは ずです。只、毎日の事ですから決して無理をしてはいけませんね。自分が負担に思えば神さまもご負担になられるものです。 よく見かける風景ですが、4尺高くに立派な神棚を設けて水と塩だけ、お榊もなく、一対の瓶子(へいじ)にはお神酒が入っている のかいないのかわからない、これでは神さまもガッカリですね。 会社勤めや家業と忙しくなされている事でしょうが、お榊ぐらいは生けてほしいものです。神饌も出来る範囲で良いと思いますが、 毎日毎朝が無理なら日を決めると好いでしょう。例えば毎月第一日曜日は我が家の月並祭とするなどがありますね。勿論、神饌 を並べる案(八足台などの台)が必要ですが。 以前ブログにも書いておりますが、わたしも仕事は別として一神道家ですので、家には天津社・国津社・祓戸社と在り、ご縁あって お祭り申しあげております神々は主祭神(氏神)とあわせて二十柱を数えます。わたしも毎日忙しい身でありますので、斎主たる わたしが朝早くから色々とあり、十分にお仕え出来ないでおります。しかし夜は一日も欠かすことなく御神前の大きな案上にお食事 とお酒を並べお勤め申し上げております。昔は家の神床や台所の荒神さまに仕え奉るのは家刀自(いえとじ:主婦)が担当し、 当主は仏壇の先祖供養に仕えました。家柄によっても違いますが。わたしの場合は家の長男ではないので先祖を祀る権限があり ませんので、我家には仏壇がありません。勿論、我家から死人が出れば御魂を祭る社を設ける事になるでしょう。 神饌について参考になるかどうか分かりませんが、わたしどもの家の場合につて書きますが、是れはあくまでも奨める意図のある ものではないことをご理解願います。 御飯・焼き魚・お味噌汁・お漬物・お茶はもとより、時にはスパゲッティ・焼肉・焼き鳥・カレーライス・ピザ・ケーキ・ホットドッグ・ 肉じゃが・おでん等々様々、お酒は瓶子を使わずグラスにお注ぎ致します。たまにウイスキーやワインや焼酎だったりもします。 但し食器は神祭用として完全に別けます。皆さんこれを読んでびっくりなされたことでしょう。これはあくまでも我が本田家の新流儀 です。お奨めするものではなく単に「おもてなしの心」について触れておきたかっただけです。神社庁さまから「本田出版、余計な事 を書くな!」とお叱りを受けそうですが。一応、本田出版が出している『古神道神拜祝詞』の解説では、慣習として原則「四つ足動 物肉は不可」としております。 余談ですが、十年程前、或る慶事がきっかけで神饌に洋食をずらりと並べ奉りました。その翌日の朝方の夢に二柱の美しい女神 が現れ手に肉の塊を持たれて微笑んでおられたのです。同じ夢を次の日の朝方にも見ました。其の事から日頃わたしが食してい る物を奉り致しました。するとまた夢に、たくさんの神々が円台を囲んで楽し気にお食事をなされているご様子なのです。此の一連 をみて託宣であると知りました。これ以来我が本田家の神祭りは華やかに楽しいものになっております。要するに動物肉を神に捧 げる事は古代からあった事で、何事も程度問題、きちっと調理されているものなら良いのではなかろうかと思う次第です。但し、馬 刺し・牛刺しなど血の滴るものは不可だと思いますし、わたし自身口にしたことがありあせん。 神社の伝統や形式は国家基盤をなすものでたいへん重いものがあります。家庭祭祀は家風と共におもてなしがあります。 最後に有名な三社託宣で終わります。 ◎天照皇大神宮 「謀計は眼前の利潤たりと雖も必ず神明の罰に当たる」 「正直は一旦の依怙に非ずと雖も終(つい)には日月(じつげつ)の憐(あわれみ)を蒙る」 ◎八幡大菩薩 「鉄丸を食すと雖も心汚れたる人の物を受けず」 「銅焔に座すと雖も心穢れたる人の処に至らず」 ◎春日大明神 「千日の注連(しめ)を曳くと雖も邪見の家には到らず」 「重服深厚たりと雖も慈悲の室(いえ)に赴くべし」 (本田出版:社主/2017、12、19) 〔門松(かどまつ)〕 由来について、いろいろの説がある。 宮中には正月門口に松を立てる風はなかったもので、これは小家の汚れを隠すために立てたものであろうとか、素戔嗚尊(スサノオノミコト)が巨旦将来を殺した時に墓標を立てたのが始めであるとか、むかし内裏の門前に鉾を立てたのが変化したものとかいうが、その主なもので、また中国唐代に、正月門に松の枝を挿す風習があったものが輸入されたとする説もあるが、この考えに対して山崎美成は、民間時令の中で、「異邦の似通いたる事を以て証するは、牽強と言いつべし」と否定している。 神にに青木の枝を手向けたり、木の梢を神の宿るところとするのは、わが国の古来からの考え方で、門松はここに歳神を迎えて祭るのが本義であったと思われる。現行の各地の風俗でも必ずしも松ばかりが用いられておらず、多くの土地で楢(ナラ)・椿・朴(ホオ)・栗・榊(サカキ)・樒(シキミ)など各種の木を門に立てている。本来、常緑樹なら何でもよかったのであろう。『土佐日記』に、延長8年(九三〇)の元旦を舟の上で迎えた人々が、都を思いやるさまを、「九重(ここのえ)の門の尻くめ縄のなよし(ボラまたはイナ)の頭、柊(ヒイラギ)いかにぞ言い合える」と記している。この風俗は、今日では多く節分の夜に行われる焼嗅がしの鰯の頭や、ヒイラギ・トベラなどに残っているが、当時は内裏、または都の家々で門口に柊を立て、しめ縄を張ったことが判る。これから140年後の惟宗(これむね)孝言(後三条天皇ごろの人)の詩には、「正月春中閉四墉」「鎖門賢木摸貞松」などの句が見られる。この詩は本朝無題詩の五にあって、作者が百日の潔斎生活をおくっている時に詠んで友人に送ったもので、自注に「近来世俗、皆以松挿門戸。而余以賢木代之」とある。当時の流行が柊から松に変わったことが知られる。作者は隠逸ぶって賢木を使って得意にしているわけであるが、これも奇矯というほどのことではなかったのである。漢学の知識によって、「松柏の凋(しぼ)むに後(おく)る」などにより貞松として重んじられたこと、当時の好尚が松をめでたい木として喜んだことが、門松の流行の原因であろう。当時は賀の歌や絵に千歳の松を用いることや、小松引の行楽が盛んであった。新撰六帖には、「今朝は皆賤(しず)が門松立てなべて祝うことぐさいやめづらなる」という歌があり、平安末期には門松を貴賤の差なく行っていたことが知られる。『徒然草』いも「大路のさま、松立てわたして花やかにうれしげなるこそ、またあはれなれ」とある。 門松に竹を添えるようになったのは、鎌倉あるいはそれ以後のことらしく、鴨長明の作といわれる『四季物語』に「八幡・松尾より飾竹奉りぬれば、八瀬・大原の民草、尻くめ縄拵(こしら)えて仕うまつれば」とある。さらにこの竹を斜めに切る風も生まれた。武田信玄と徳川家康の両軍が対陣中の正月に、武田から「松(徳川を指す)枯れて竹たぐひなき旦(あした)哉」と詠んでやると、酒井忠次がすかさず濁点を付けて「松枯れで竹だくびなき旦哉」と詠み返したという逸話は、竹をはすに切って門松に添える風習に基づいていよう。門松の左右の松を男松・女松とすることは、卜部家の伝書にあるといわれるが、いつから始まったことか明らかではない。いわゆる本飾または七つ飾というものは、一丈余の松を心にして、三本または五本・七本の葉付き竹を添え、荒縄で三か所を七五三に結び、裾に二つ割の松薪を並べて縄で巻き上げ周囲に清砂を盛り、太い綱を輪形において囲む。枝付きの小竹を松の上方に鳥居形に横たえるのをカンザシというのは、神挿しであろうか。前垂と称する注連をかけ、中央に蝦(えび)・橙(だいだい)・裏白などのお飾りをつける。長崎県五島などで幸木(さいわいぎ)と称する横木に年肴を吊る風習と門松とが結び付いた形と思えばよい。その他、武家には家々の家例があって、鍋島家の鼓胴、綾部家の札飾、久保田家の人飾(門前に家臣を並ばせて門松に代える)などは、最も特異なものである。 (本田出版:「国学院大学、関係資料より」2017、11、14) 〔皆さんご注意を〕 もうお盆だというのにうちの庭の大きなアジサイの木がまだ元気に花を咲かせています。また桃の実も大きく育ち御神前にお供えできる歓びであります。今年はマクワウリの苗を何本か植えたのですが、誰かが踏みつぶしてしまい駄目でした。 偉大な先祖・神々のご加護にあずかって平穏無事に暮らしている我が家ですが、パソコンをひらいて、見るネットのブログは暗い内容ばかりです。景気経済は悪いし、やたらと多い外国人の素行の悪さには呆れる思いです。国という大きな屋根は穴だらけです。 ここ数年で町の本屋さんがいっきに減っていきました。大手の本屋さんでも何んとか売れている本は「危機・不安・健康」といった類のものだそうです。これだけ国民の心が後ろ向きになっているということです。 こういう混迷の時代が長く続くと必ずおかしな宗教が流行りだすものです。これは要注意です。うちにもよくキリスト教や仏教系など様々な宗教団体の人が勧誘に来ます。門のわきの花が歓迎してくれているとでも思ってか入りやすいのでしょうね。しかし最近はかなり新手で来ます。家の入口には結界の注連(しめ)があるのですが、それに気づいてもひるみません。皆しめし合わせたかのように「わたしたちの教えはどの様な方でも受け入れるのです。」などと言います。一昔まえの訪問勧誘の仕方には見られませんでした。 かなりまえの話になりますが、友人が仏教系の新興宗教にはまり込んでいて抜け出せずいたので、なんとかしてあげようと色々と助言致しました。彼は洗脳状態でしたが、しがらみと金銭的負担に耐えきれなくなり、わたしのところへ来ましたので脱会の運びとなりました。わたしが中に入り脱会手続きは無事済んだのですが、その後が大変でした。わたしの家に葬儀社を数度よこしたり、注文してもいない天然水が大量に届いたり、等々大変な目に遭いました。この他にも新興宗教に関する聞いた体験談がありますが、そのうち書く機会がありましたらブログに載せましょう。新興宗教全てが悪いとは言いませんが、90%以上の団体は「教理的に問題有り」とみておいたほうがよさそうです。皆さんご注意を。 (本田出版社主:2017/08/10) 祭事〔花祭り、山神〕 4月にも入り、ようやく桜もほころびはじめた今日です。 日本には7世紀はじめ中国から伝わり、最初にこの法会を行ったのが元興寺といわれるが詳しいことは分かっていません。甘茶をかける習わしはもっと後の弘法大師空海の時代になってからのようです。 この「花祭り」は、じつは神道と関係が深く、古代日本の民族行事の「山籠り」「花摘み」が仏教と習合したものと考えられます。寒く雪に閉ざされる期間を「山籠り」といい、山の神が籠っておられる時期でもある。「花摘み」は山の頂の雪も溶け山桜が咲くころ山の神をお招きする意味で「山開き」として祝うのです。 ここでいう山の神とは、自然界の精霊で、「木霊」「水霊」「火霊」「稻霊」などがあり、それらを司り示現する神として野椎神(鹿屋野比売神)・水分神(弥都波能売神)・雷神・迦具土神・大宜都比売神(稲荷神)・櫛名田比売神(日本書紀では奇稻田姫)等々が挙げられ里山に祭祀されます。もっとも一般に知られている山神は大山津見神(衣食住・酒の神)や木花之佐久夜毘売神(火伏・安産の神)でしょう、この二柱の神を祭る神社は多い。 ここで山神とは関係なさそうに思える大宜都比売神・櫛名田比売神であるが、田植えの頃になると山から里へ下りて来られて作物の成育を助けるといわれる。大宜都比売神は保食神(ウケモチノカミ=宇迦之御魂神、稲荷神)と同神と考えられ五穀豊穣の神、穀霊・稻魂の性格を持つとされ、伊勢神宮外宮に「豊受大神」として祭られている。一方、櫛名田比売神の神名の「クシ」は「櫛」を依代とする神代の巫女であったと考えられます、さらに考えられる一つとして、水田の四隅に立てる苗代の「串」のこととも、これも神が管理する意である。
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本田出版